天龍双

待ってろ仔犬(前編)

 嘘ががれ落ちていく。嘘だと思っていたものが、いつわりの嘘の仮面を外して、七瀬彼方に示した。
 とある男の嘘をあばいて、真実を認めよと彼方に提示したのだ。水無月が志部に放った言葉は、間接的に彼方にやいばを突きつけた。水無月は勇樹に嘘をくつもりがないのだ。
 勇樹は彼方を待っていてくれると思っていたのに。水無月によって花開いていく勇樹の姿が胸に突き刺さる。彼方をきつけるために、嘘の仮面を被っていることを否定しなかっただけで、水無月は最初から愛情を嘘で支える気などなかったのだ。
 彼方は成長を阻害する嘘が嫌いだ。勇樹に選んでもらえるようになるためには、どこまでも彼方は成長しなくてはならない。
 成長したいのだ。彼方は勇樹を幸せにするために、自分が与えられないものなど何一つない世界を作る。全てを捧げるのだ。
 水無月は勇樹にどこまでも理想で固めた自分しか見せないと思っていたが、どうやら違うらしい。
 最初は水無月が勇樹の視野を広げようとはしないと思っていた。勇樹を囲って、せまい世界の中だけで飼おうとしているのだと。その程度の男なら簡単に排除できると、心の悲鳴を抑え込んで、彼方はしばらく様子を見ていたが、放送選挙後の勇樹の様子の変化で、水無月がある程度は実情を明かしたことを知った。
 あの変態は勇樹のいろいろな表情を見たいと、自身の印象を崩さない程度には、世界の色を提示するのかと彼方はいきどおった。まるで映画でも上映するかのように、自分で制御できる世界を楽しく教えたのだろうと。
 水無月は勇樹を狭い世界で飼い殺しにする気に違いないが、要するにそれは自分が守れる範囲外の世界にかわいい仔犬を出すつもりがないということだ。彼方はそれがうらやましくて仕方なかった。どうしてそんなふうに強気でいられるのだろう。
 彼方のやり方で愛せば、きっと勇樹は泣いてしまう。初めて会ったあの時みたいに。だから今まで彼方らしいやり方はしてこなかった。それが裏目に出たというのか。水無月なんかが我が物顔で勇樹の心に手を伸ばすなんて。
 水無月には感情というものがない。彼が勇樹に抱いているのは認めたくなくとも愛情ではあると思うが、感情のない男特有のものの見方をしている。
 何故そう思うのか? 彼方も同様だからだ。感情がないという言い方は正確ではないかもしれないが、彼方や水無月が特定の物事に対してしか関心がないのは、取捨選択が明確で、自身の深部が何を欲しているかをはっきりと自覚しているからだろう。
 本当に欲しいもの以外を手に入れても、まやかしの充足じゅうそく感しか得られないという共通した認識を持っているのだ。目先の欲を満たしても、心のしんはいつまでも満足しない。
 と、ここまでが彼方と水無月の共通点だ。二人が相容れずに対立するのは、求めるものが分けられないからだが、こと欲に関しては真逆の考え方なのも大きい。
 男同士なので今の日本では結婚できないが、彼方は勇樹と唯一の恋人として将来をちかい合えれば、それ以外には何も求めない。勇樹が喜ぶものは、何でも与えるつもりだが。
 健全な男子高校生なので、彼方にも性欲はあるが、勇樹がノーマルだと思っていた時は、たとえ恋人になれても、触れ合いを強要する気はなかった。
 勇樹が彼方を恋人として認識してくれて、手を繋ぐことだけでも許してくれれば、彼方の気持ちは満たされる。肉体的にはきついだろうが、別にしなくても死なないのだから、彼方は平気だ。勇樹の方の欲は肉体的な浮気以外ならば、どのように発散しても構わない。
 水無月は逆だろう。少しずつ勇樹の意識から侵食して、想像するだけで死にそうになるが、たっぷり甘やかして、快楽を追求するに違いない。
 彼方の素直な欲求をさらけ出せば、勇樹とキス以上のことをしたいという至極しごく一般的な部分もあるし、実際抑えがたい衝動に苦しむこともあるが、それ以上にマニアックな性質が色濃い。
 彼方は勇樹の心の奥深い部分を共に成長させたいのだ。語弊ごへいはあるが、彼を育てたい。
 勇樹の一挙手いっきょしゅ一投足いっとうそくから、彼の心を映し出すような良い匂いがする。美しい音色がひびく。どれもこれも綺麗でんでいるのだ。
 彼方が加わることで、今度はどんな様子を見せてくれるのか、気にならないと言ったら嘘になる。
 だがまだその時ではないと思うのだ。彼方の計画の半分も達成できていない状態で、どうして勇樹の心に踏み込めるだろうか。
 その心に暗い影を落としたり、その成育を阻害そがいしたりする可能性のあるものはどこまでも排除してきた。水無月のような変質的な男を、わずかにでも成長させる響きをかなでた勇樹は何てとうといのだろう。
 ずっと心の奥底にしまい込んでいた特殊な思いを表層に浮かべてしまうほど、彼方は驚愕きょうがくしていた。
 普段非常に理性的な彼方は、自身の思考すらも欲望にかたむき過ぎないように制御していたというのに。
 それもこれも水無月の馬鹿が彼方に厄介ごとを丸投げして、勇樹を連れて行ってしまったからだ。周りの目など気にせずに。
 水無月と勇樹が手を繋いで去ったことから、彼らの関係に感づく者が現れたら厄介だ。先程から一言も発せていない志部がどのような反応をするかで、彼方の取るべき行動は変わってくる。
「……か、彼方君。僕は何が起こったのかいまだに理解が追いつかないよ」
 昼休みがそろそろ終わるという時に、志部はようやく口を開いた。
「大抵の人がそうでしょうね。廊下でこちらを見てた人たちも、狐につままれたようでしたから」
「水無月君は僕を侮辱ぶじょくしたということなのかな?」
 言葉というものは、そこに含まれるニュアンスによって意味も異なる。確かに水無月の放った一言一句を切り取って並べれば、志部印刷の問題点を列挙れっきょして、絶縁状を突きつけたに過ぎない。
 あれらの台詞が渡された手紙にでも書かれていたのなら、志部はこれ以上ない侮辱だと怒り狂うだろう。人はそこにある感情を創造するのが好きな生き物だから。
 しかし志部は、水無月に言われた内容をどのように受け取ればよいのか判断しかねている。
 それは水無月の話し方がどこまでもやわらかく、まるでよどんでいたうみを押し出すような、軽くほこりを払う程度の他意のなさがはっきり現れていたからだろう。
 普通は感情にとらわれた人間に、何らかの事実や正論を突きつけても、火に油を注ぐだけだ。特に志部のように現実をきちんと見ようとしない者は、その傾向が顕著けんちょだろう。
 感情に感情をぶつけると炎上するし、正論の原動力に感情が混じっていても、感情的な者は敏感にそれを察知する。
 逆に相手の感情を切り捨てるような冷酷さや、見下した気持ちを持ったまま対応すれば、無礼だと、傷つけられたと相手が自分を正当化できる理由を与えることになる。
 相手の感情を捨て置く者には、無自覚でも感情があるのだ。それは面倒臭いという思いだったり、非効率をなげく気持ちだったりするだろうが、どれも相手を認めないことが根底にある。
 そこに存在するそのままを認めずに、手を加えたがったり、邪魔だと排除しようとしたりするからぶつかり合うのだ。
 水無月の言葉にはそういったものが一切含まれていなかった。嫌味を込めるでも、軽蔑するでもなく、ましてや相手の将来を思いやった忠告というわけでもない。
 何の感情もそこにはなく、意図的なものを全く付加せずに水無月が見たままを提示して、掃除でもするようにほこりを払った。
 少しも感情のもっていない言葉は、誰の感情も刺激しない。だから志部は態度を決めかねているのだ。
「侮辱というよりも、水無月は自分の見える世界を言葉に乗せただけという感じがしますね」
 感情のない人間がそれを前面に出すとああなるのか。
「水無月君は僕の敵に回ったということかい? 僕はどう対応したらいいと思う?」
 普段外部の意見で方向を決めることなどないだろうに、志部は彼方にたずねてきた。
「敵ではないですね。味方でもないですが」
「一体どういうことだい……彼方君、僕は今までずっと水無月君が僕を馬鹿にしてると思ってたんだ。でも彼は僕に何の感情も傾けてない。いや、僕だけでなく周囲の誰にも……水無月君は志部印刷を追いやったカフェLa vieの跡取り息子で、彼の両親と同じように僕らにつぐなう義務があると……」
「志部先輩はどうしてそう思ったんですか?」
 問いを発することで、彼方は志部に認識させたかった。
「だって彼らのせいで、僕たちは酷い目にったんだ。あのクラブに入れてくれれば、もう少し経営が……」
「俺はそういった事情には詳しくないですがが、一つだけわかることがあります」
 流石に彼方もそれぞれの家計まで知らないが、表出するものからある程度予測はつく。
「志部先輩には才能があります。それをもれさせる道を選ぶのはもったいないですよ」
「ぼ、僕の才能……?」
 思わぬプレゼントを貰った子供のように志部は目を輝かせた。これはお世辞ではない。
「俺は志部先輩ほど反面教師になれる人はいないと思います。その身をって周囲に知らしめていますよね。先輩のような生き方をすると、自分で自分の首を絞めるって」
 志部が硬直こうちょくした。
「な、何だって……?」
「志部先輩、事実を直視しましょう。志部印刷は地べたをいずり回って慈悲をいながら、与えられた温情を裏切り続け、手を差し伸べてくれた相手をだましてえつひたってるような精神性、ヤクザの奴隷どれい扱いされてた時から何も変わってませんよ!」
 志部がその場に崩れ落ちた。彼を罵倒ばとうする意図は彼方には微塵みじんもない。志部印刷のやり方に辛酸しんさんめさせられたことのある者は、この発言を小気味良いと喜ぶかもしれないが、彼方にとっては勇樹を守るための手段に過ぎない。
 これはある種のテクニックだ。上げて落とし、どん底まで叩きつけ、一本の糸を垂らす。
 彼方は神様ではないので、垂らした糸を持っているのは当然自分ではない。逆にこの糸を彼方が握っていたら破滅への入り口だ。
「志部印刷に苦しみはあれども、多少のお金を握れた時代はあったとしても、誇れるようなものは何もない。それでいいじゃないですか。そのままを見ないでもがき続けるよりも、立派でない自分を認める方が尊い。何て勇気があるのだろう。そう思いませんか?」
「尊い……? 勇気……?」
 ポジティブなワードは拾うようだ。
「はい。誇れるようなものが皆無かいむでも、そこを出発点に自分の足で立ち上がれば、それは誇りになるでしょう。志部先輩の周りに誰もそういう人がいないとしたら、先輩がその道の第一人者です。とても立派じゃありませんか。きっとそういう人に幸運の女神は微笑んでくれますよ」
 恐らく勇樹ならばこのようにはげますだろう。彼方は水無月と方向性は違うものの、同じように一般的な枠からは外れている。
 水無月は勇樹を自分のいる場所に引き込み、そこを楽園に変えるつもりだろうが、彼方は楽園を作ってから、そこに勇樹を招きたいと考えている。
 勇樹が彼方の用意した場所で幸せに過ごしてくれること以上に、嬉しいことがあるだろうか。
 彼方みたいな男に好かれてしまったかわいそうな勇樹を幸せにするためにはどうしたらよいか、試行しこう錯誤さくごの結果このような結論を出した。
 彼方は己の内に秘める特異性を奥底に追いやり、勇樹に合わせることにしたのだ。
「僕は本当に志部印刷を大事に思ってるんだ。僕と僕の家族さえ良ければ、他がどうなっても構わない。だから汚いことをしても心は全く痛まなかった。そもそも悪いのは水無月一家だ」
「志部先輩、水無月が言ったことを自分に置き換えて考えてみましたか?」
「水無月君は志部印刷の未来を暗雲垂れ込むみたいな言い方をして……」
「そちらではなく、嘘つきについてのくだりです」
 水無月は相手に理解させようという気がないので、非常に断片的なことしか言っていない。
「大まかに分類して、嘘つきには三種類あるんですよ。自分に嘘をついてる嘘つき、意図的な嘘つき、間接的で無自覚な嘘つき。まあ、自分に嘘をついてる嘘つきは、好んで意図的な嘘つきになりますし、間接的で無自覚な嘘つきも時として意図的な嘘つきや自分に嘘をつく嘘つきになります。抽象的なので具体例を挙げましょうか」
 何故彼方が解説しなければならないのか。
「水無月は志部印刷を自分に嘘をついてる嘘つき、その背後に見え隠れするヤクザを意図的な嘘つき、親の代のカフェLa vieを間接的で無自覚な嘘つきというように表現しています」
「何だい、結局水無月家も嘘つきなんじゃないか」
 志部が勝ち誇ったような顔をするので、彼方は即座につけ加えた。
「ちなみに力関係では志部印刷が一番弱いですよ」
「…………」
「意図的な嘘つきは、自分に嘘をついてる嘘つきよりも力を持つので、具体的に言えばくだんのヤクザは志部印刷を支配して、最大限利用しようとします。自分に嘘をついてる嘘つきの性質をよく理解してるので、餌をうまい具合にちらつかせて、わずかにおいしい思いをさせることもあるでしょう」
「……悔しいことに志部印刷は随分ずいぶんヤクザに踏みつけられてきたよ」
「でも志部印刷は、そのヤクザよりも水無月家を恨んでますよね?」
「……ヤクザのことだって本当は嫌いだよ。でも歯向かっても叩き潰されるし、最悪殺されてしまうからね」
 志部にも一般的な感覚はあるらしい。
「でも志部印刷ってそのヤクザに憧れも抱いてますよね? 昔は子分として結構弱い者いじめをしてきたんじゃないですか?」
「……彼方君、君は水無月君の援護をしたいのかい?」
「まさか。俺は水無月とは明確に対立してます」
 敵の敵は味方と思いたいのか、志部は渋渋しぶしぶ頷いた。
「彼方君の言い方は悪いけど、弱い者を支配してた側面はあるかもしれないね。ヤクザは取り立てをするものだろう?」
「一応他のヤクザから守るという大義名分はあるはずですが。単に威張り散らすのは違いますよね。仮に敵襲があったら、戦わずに親分に泣きつくのが志部一家のやり方では?」
「……ここまで来たら好きなだけののしればいいいさ!」
「罵ってませんよ。志部先輩が水無月一家を恨むのは、力や暴力をかさに着て自身の自尊心を満たす方法を取れなくなって、力のない自分を直視させられるきっかけになったからでは?」
 ここまで言えば普通喧嘩になるが、今の志部にはそんな気力もないのだろう。彼方も相手を刺激しないような声の調子を保っているので余計だ。
「僕は平和主義者だよ……」
「そうでしょうね。殴られるのは痛くて嫌いでしょうし、今の時代にもそぐわないので、それ以外の方法を模索中なのでは?」
「彼方君は何を言いたいんだい?」
「志部先輩が次にターゲットにするのは、普通は気にしない、ほんのわずかな意識の隙間。そこを支配したいのでしょう?」
 力のなかった印刷屋が次に目をつけたのは、人人ひとびとの心を誘導する方法。広告塔を用意して、その好感度を上げ、大衆に行き届く存在を作り上げたいのだろう。
「な、何故そのことを……! 僕が密かに計画していた宇宙喫茶の情報をどこから手に入れたんだい!?」
 志部の案が予想以上にしょぼいので、彼方はこのまま放置することにした。
「単なる予測です。とにかく俺が志部先輩に言いたいのは、全部水無月一家のせいにするのは無理があるということです。自分への嘘と恨みつらみで視界をくもらせてると、取り返しのつかないことになりかねません」
 自分に嘘をついている嘘つきは、自身の器を悟られぬように意図的な嘘で装飾もするが、その正体を見破られたら終わりだ。
 そもそも嘘は中身がないから嘘なのだ。中身のない空洞を継ぎぎするから、軽いものはしのげても、大きな負荷がかかれば、耐えられずに必ず崩壊ほうかいする。
「水無月は嘘が嫌いだって言ってましたけど、やつの嫌いって別に悪感情があるわけじゃないんですよね。障害物程度には思ってるでしょうけど、そこに否定がない」
 人は何故否定するか。自身が飲み込まれそうになったり、脅威を感じたりと大抵は防衛反応だろう。
「その気になればすぐに排除できるからですよ。排除するという意識すらないでしょうね。あの男の基準は時として慎重に、余計だと思ったものを最小限の動きでなくす。その程度の認識しかないんです」
 相手にしていないと相手に思わせることで反感を買うような意識の隙間さえない。温かいと思っていた者の手が冷たかったら、人は驚くが、もしもそれが最初から氷だったら人の感情は動かないだろう。
 水無月はあの時、場を支配していたが、支配しようとする気がないからこそできた芸当だ。全くない意識の揺らぎ。つくづく勇樹は厄介な男に好かれたものだ。
「……僕はもう水無月君に関わるのをやめるよ。彼方君、君の言うことが全てだとは思わないけれど、参考になった。散散さんざんな言われようだったが、不思議と落ち着いた気分だよ。志部印刷の今後の意識的宇宙進出に期待しててくれ」
「……そうですか」
 一応彼方の目的は達成した。志部が吹っ切れたのだったら、これ以上言うことはない。
 勇樹とつき合う前の水無月だったら、あそこまで全面的に己を出さなかっただろうから、その本意を完全には再現できずに、相手と衝突する余地を残していただろう。
 以前は感情がないことを表沙汰ざたにしなかったために、水無月に人間味があると錯覚した者が、想像との落差に裏切られたような感覚を抱く可能性があったのだ。
 心をこおらせていると表現できるようなたたずまいの人間には、元は凍っていなかった心の持ち主だったと想像する余地がある。
 だが最初から心が氷――あくまでも比喩ひゆだが――の者にはそれがない。だから他者の意識が干渉する隙間がないのだ。
 水無月は勇樹に対してだけは豊かな感情があるのか? あると言えばあるだろうし、ないと言えばないだろう。勇樹を愛しているのは確かだが、そこには喜怒哀楽でいう喜と楽しかない。彼方のように。
 勇樹といるのは楽しくて喜ばしい。勇樹が悲しそうだったら、彼方はその悲しみを取り除いて笑顔にしたいと思うし、勇樹が怒っていたら、その怒りの原因を知って、怒らなくて済むような環境作りにはげむ。
 勇樹関係では彼方も他者に憤りを覚えることがなくはないが、正確に言うならば、他者に抱く感情というよりも、自身の準備不足を嘆いているだけなのだ。それが怒っているように周囲からは見えるらしい。
 授業を半分ほどさぼってしまったが、自習だったので構わず彼方は教室に戻った。
 教室には勇樹の姿がなく、彼方の機嫌は最悪になったが、自習のプリントを素早く埋めて、机に突っ伏す。
 勇樹が水無月に好き勝手に手を出されていたら……想像するだけで胃がむかむかする。
 彼方の心に勇樹は住んでいる。更に言えば、彼方の心は勇樹だけのもので、そこに他人を介在させる隙間は一切ない。
 しかし勇樹が彼方以外を気にかければ、彼を見つめる過程で、仕方なくそちらにも目を向けることになる。
 勇樹の心に彼方以外が住まうのは、とても気持ちが悪い。彼方にとって絶対的な存在である勇樹に、異物が混じるようなものなのだ。
 仮にそれが勇樹にとってプラスになるものならば、吐き気をもよおしていても我慢する。今まではマイナスしかなかったから、即座に排除してきたし、有象無象よりも彼方の方が勇樹に捧げられるものは多かった。
 だが水無月は確実に勇樹を変えている。少なくとも悪い方向ではない。この不快感をどう処理したらよいのか。
 彼方と勇樹が恋愛関係になったあかつきには、お互いだけを見つめ合う空間を用意する。彼方は勇樹だけを、勇樹は彼方だけを。
 想像するだけで、ささくれた気持ちが穏やかにほどけていく。学生のうちは難しいだろうが、その間に準備を進めていけばよいのだ。
 彼方だけを見つめることで勇樹がつまらなくならないように、彼方が世界を己の内側に体現できるようになれば、何も問題はない。
 彼方は勇樹のいる場所に寄り添って、そこに全ての世界を展開する。我ながら涙ぐましい歩み寄りだ。彼方は勇樹の居場所で一から始めるのだから。
 いつの間にか五限目は終わっていて、彼方の携帯が震えた。勇樹かもしれないと、表示を確認せずに出たのは、少し油断していたのかもしれない。
『彼方、私はお前を私の後継ぎに指名する。これは決定事項だ』
 こちらが反応する前に、用件だけ話して通話を切った男。彼方を置いて出て行った父親だ。
 彼方の母親から逃げ出した糞親父。相変わらず神がかったタイミングで連絡してくる。着信拒否しても毎回違う番号でかけてくるので、誤って出てしまえば、こちらが切る前に無理難題を吹っかけてくるのだ。
 彼方は今父型の祖母の家で暮らしているが、あの男は絶対に実家には近寄らないので、少し警戒を緩めていたのが良くなかったか。また面倒臭いことになりそうだ。

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