5-04.待ってろ仔犬(前編)
嘘が
とある男の嘘を
勇樹は彼方を待っていてくれると思っていたのに。水無月によって花開いていく勇樹の姿が胸に突き刺さる。彼方を
彼方は成長を阻害する嘘が嫌いだ。勇樹に選んでもらえるようになるためには、どこまでも彼方は成長しなくてはならない。
成長したいのだ。彼方は勇樹を幸せにするために、自分が与えられないものなど何一つない世界を作る。全てを捧げるのだ。
水無月は勇樹にどこまでも理想で固めた自分しか見せないと思っていたが、どうやら違うらしい。
最初は水無月が勇樹の視野を広げようとはしないと思っていた。勇樹を囲って、
あの変態は勇樹のいろいろな表情を見たいと、自身の印象を崩さない程度には、世界の色を提示するのかと彼方は
水無月は勇樹を狭い世界で飼い殺しにする気に違いないが、要するにそれは自分が守れる範囲外の世界にかわいい仔犬を出すつもりがないということだ。彼方はそれが
彼方のやり方で愛せば、きっと勇樹は泣いてしまう。初めて会ったあの時みたいに。だから今まで彼方らしいやり方はしてこなかった。それが裏目に出たというのか。水無月なんかが我が物顔で勇樹の心に手を伸ばすなんて。
水無月には感情というものがない。彼が勇樹に抱いているのは認めたくなくとも愛情ではあると思うが、感情のない男特有のものの見方をしている。
何故そう思うのか? 彼方も同様だからだ。感情がないという言い方は正確ではないかもしれないが、彼方や水無月が特定の物事に対してしか関心がないのは、取捨選択が明確で、自身の深部が何を欲しているかをはっきりと自覚しているからだろう。
本当に欲しいもの以外を手に入れても、まやかしの
と、ここまでが彼方と水無月の共通点だ。二人が相容れずに対立するのは、求めるものが分けられないからだが、こと欲に関しては真逆の考え方なのも大きい。
男同士なので今の日本では結婚できないが、彼方は勇樹と唯一の恋人として将来を
健全な男子高校生なので、彼方にも性欲はあるが、勇樹がノーマルだと思っていた時は、
勇樹が彼方を恋人として認識してくれて、手を繋ぐことだけでも許してくれれば、彼方の気持ちは満たされる。肉体的にはきついだろうが、別にしなくても死なないのだから、彼方は平気だ。勇樹の方の欲は肉体的な浮気以外ならば、どのように発散しても構わない。
水無月は逆だろう。少しずつ勇樹の意識から侵食して、想像するだけで死にそうになるが、たっぷり甘やかして、快楽を追求するに違いない。
彼方の素直な欲求をさらけ出せば、勇樹とキス以上のことをしたいという
彼方は勇樹の心の奥深い部分を共に成長させたいのだ。
勇樹の
彼方が加わることで、今度はどんな様子を見せてくれるのか、気にならないと言ったら嘘になる。
だがまだその時ではないと思うのだ。彼方の計画の半分も達成できていない状態で、どうして勇樹の心に踏み込めるだろうか。
その心に暗い影を落としたり、その成育を
ずっと心の奥底にしまい込んでいた特殊な思いを表層に浮かべてしまうほど、彼方は
普段非常に理性的な彼方は、自身の思考すらも欲望に
それもこれも水無月の馬鹿が彼方に厄介ごとを丸投げして、勇樹を連れて行ってしまったからだ。周りの目など気にせずに。
水無月と勇樹が手を繋いで去ったことから、彼らの関係に感づく者が現れたら厄介だ。先程から一言も発せていない志部がどのような反応をするかで、彼方の取るべき行動は変わってくる。
「……か、彼方君。僕は何が起こったのか
昼休みがそろそろ終わるという時に、志部はようやく口を開いた。
「大抵の人がそうでしょうね。廊下でこちらを見てた人たちも、狐につままれたようでしたから」
「水無月君は僕を
言葉というものは、そこに含まれるニュアンスによって意味も異なる。確かに水無月の放った一言一句を切り取って並べれば、志部印刷の問題点を
あれらの台詞が渡された手紙にでも書かれていたのなら、志部はこれ以上ない侮辱だと怒り狂うだろう。人はそこにある感情を創造するのが好きな生き物だから。
しかし志部は、水無月に言われた内容をどのように受け取ればよいのか判断しかねている。
それは水無月の話し方がどこまでも
普通は感情に
感情に感情をぶつけると炎上するし、正論の原動力に感情が混じっていても、感情的な者は敏感にそれを察知する。
逆に相手の感情を切り捨てるような冷酷さや、見下した気持ちを持ったまま対応すれば、無礼だと、傷つけられたと相手が自分を正当化できる理由を与えることになる。
相手の感情を捨て置く者には、無自覚でも感情があるのだ。それは面倒臭いという思いだったり、非効率を
そこに存在するそのままを認めずに、手を加えたがったり、邪魔だと排除しようとしたりするからぶつかり合うのだ。
水無月の言葉にはそういったものが一切含まれていなかった。嫌味を込めるでも、軽蔑するでもなく、ましてや相手の将来を思いやった忠告というわけでもない。
何の感情もそこにはなく、意図的なものを全く付加せずに水無月が見たままを提示して、掃除でもするように
少しも感情の
「侮辱というよりも、水無月は自分の見える世界を言葉に乗せただけという感じがしますね」
感情のない人間がそれを前面に出すとああなるのか。
「水無月君は僕の敵に回ったということかい? 僕はどう対応したらいいと思う?」
普段外部の意見で方向を決めることなどないだろうに、志部は彼方に
「敵ではないですね。味方でもないですが」
「一体どういうことだい……彼方君、僕は今までずっと水無月君が僕を馬鹿にしてると思ってたんだ。でも彼は僕に何の感情も傾けてない。いや、僕だけでなく周囲の誰にも……水無月君は志部印刷を追いやったカフェLa vieの跡取り息子で、彼の両親と同じように僕らに
「志部先輩はどうしてそう思ったんですか?」
問いを発することで、彼方は志部に認識させたかった。
「だって彼らのせいで、僕たちは酷い目に
「俺はそういった事情には詳しくないですがが、一つだけわかることがあります」
流石に彼方もそれぞれの家計まで知らないが、表出するものからある程度予測はつく。
「志部先輩には才能があります。それを
「ぼ、僕の才能……?」
思わぬプレゼントを貰った子供のように志部は目を輝かせた。これはお世辞ではない。
「俺は志部先輩ほど反面教師になれる人はいないと思います。その身を
志部が
「な、何だって……?」
「志部先輩、事実を直視しましょう。志部印刷は地べたを
志部がその場に崩れ落ちた。彼を
これはある種のテクニックだ。上げて落とし、どん底まで叩きつけ、一本の糸を垂らす。
彼方は神様ではないので、垂らした糸を持っているのは当然自分ではない。逆にこの糸を彼方が握っていたら破滅への入り口だ。
「志部印刷に苦しみはあれども、多少のお金を握れた時代はあったとしても、誇れるようなものは何もない。それでいいじゃないですか。そのままを見ないでもがき続けるよりも、立派でない自分を認める方が尊い。何て勇気があるのだろう。そう思いませんか?」
「尊い……? 勇気……?」
ポジティブなワードは拾うようだ。
「はい。誇れるようなものが
恐らく勇樹ならばこのように
水無月は勇樹を自分のいる場所に引き込み、そこを楽園に変えるつもりだろうが、彼方は楽園を作ってから、そこに勇樹を招きたいと考えている。
勇樹が彼方の用意した場所で幸せに過ごしてくれること以上に、嬉しいことがあるだろうか。
彼方みたいな男に好かれてしまったかわいそうな勇樹を幸せにするためにはどうしたらよいか、
彼方は己の内に秘める特異性を奥底に追いやり、勇樹に合わせることにしたのだ。
「僕は本当に志部印刷を大事に思ってるんだ。僕と僕の家族さえ良ければ、他がどうなっても構わない。だから汚いことをしても心は全く痛まなかった。そもそも悪いのは水無月一家だ」
「志部先輩、水無月が言ったことを自分に置き換えて考えてみましたか?」
「水無月君は志部印刷の未来を暗雲垂れ込むみたいな言い方をして……」
「そちらではなく、嘘つきについてのくだりです」
水無月は相手に理解させようという気がないので、非常に断片的なことしか言っていない。
「大まかに分類して、嘘つきには三種類あるんですよ。自分に嘘をついてる嘘つき、意図的な嘘つき、間接的で無自覚な嘘つき。まあ、自分に嘘をついてる嘘つきは、好んで意図的な嘘つきになりますし、間接的で無自覚な嘘つきも時として意図的な嘘つきや自分に嘘をつく嘘つきになります。抽象的なので具体例を挙げましょうか」
何故彼方が解説しなければならないのか。
「水無月は志部印刷を自分に嘘をついてる嘘つき、その背後に見え隠れするヤクザを意図的な嘘つき、親の代のカフェLa vieを間接的で無自覚な嘘つきというように表現しています」
「何だい、結局水無月家も嘘つきなんじゃないか」
志部が勝ち誇ったような顔をするので、彼方は即座につけ加えた。
「ちなみに力関係では志部印刷が一番弱いですよ」
「…………」
「意図的な嘘つきは、自分に嘘をついてる嘘つきよりも力を持つので、具体的に言えば
「……悔しいことに志部印刷は
「でも志部印刷は、そのヤクザよりも水無月家を恨んでますよね?」
「……ヤクザのことだって本当は嫌いだよ。でも歯向かっても叩き潰されるし、最悪殺されてしまうからね」
志部にも一般的な感覚はあるらしい。
「でも志部印刷ってそのヤクザに憧れも抱いてますよね? 昔は子分として結構弱い者いじめをしてきたんじゃないですか?」
「……彼方君、君は水無月君の援護をしたいのかい?」
「まさか。俺は水無月とは明確に対立してます」
敵の敵は味方と思いたいのか、志部は
「彼方君の言い方は悪いけど、弱い者を支配してた側面はあるかもしれないね。ヤクザは取り立てをするものだろう?」
「一応他のヤクザから守るという大義名分はあるはずですが。単に威張り散らすのは違いますよね。仮に敵襲があったら、戦わずに親分に泣きつくのが志部一家のやり方では?」
「……ここまで来たら好きなだけ
「罵ってませんよ。志部先輩が水無月一家を恨むのは、力や暴力を
ここまで言えば普通喧嘩になるが、今の志部にはそんな気力もないのだろう。彼方も相手を刺激しないような声の調子を保っているので余計だ。
「僕は平和主義者だよ……」
「そうでしょうね。殴られるのは痛くて嫌いでしょうし、今の時代にもそぐわないので、それ以外の方法を模索中なのでは?」
「彼方君は何を言いたいんだい?」
「志部先輩が次にターゲットにするのは、普通は気にしない、ほんの
力のなかった印刷屋が次に目をつけたのは、
「な、何故そのことを……! 僕が密かに計画していた宇宙喫茶の情報をどこから手に入れたんだい!?」
志部の案が予想以上にしょぼいので、彼方はこのまま放置することにした。
「単なる予測です。とにかく俺が志部先輩に言いたいのは、全部水無月一家のせいにするのは無理があるということです。自分への嘘と恨みつらみで視界を
自分に嘘をついている嘘つきは、自身の器を悟られぬように意図的な嘘で装飾もするが、その正体を見破られたら終わりだ。
そもそも嘘は中身がないから嘘なのだ。中身のない空洞を継ぎ
「水無月は嘘が嫌いだって言ってましたけど、やつの嫌いって別に悪感情があるわけじゃないんですよね。障害物程度には思ってるでしょうけど、そこに否定がない」
人は何故否定するか。自身が飲み込まれそうになったり、脅威を感じたりと大抵は防衛反応だろう。
「その気になればすぐに排除できるからですよ。排除するという意識すらないでしょうね。あの男の基準は時として慎重に、余計だと思ったものを最小限の動きでなくす。その程度の認識しかないんです」
相手にしていないと相手に思わせることで反感を買うような意識の隙間さえない。温かいと思っていた者の手が冷たかったら、人は驚くが、もしもそれが最初から氷だったら人の感情は動かないだろう。
水無月はあの時、場を支配していたが、支配しようとする気がないからこそできた芸当だ。全くない意識の揺らぎ。つくづく勇樹は厄介な男に好かれたものだ。
「……僕はもう水無月君に関わるのをやめるよ。彼方君、君の言うことが全てだとは思わないけれど、参考になった。
「……そうですか」
一応彼方の目的は達成した。志部が吹っ切れたのだったら、これ以上言うことはない。
勇樹とつき合う前の水無月だったら、あそこまで全面的に己を出さなかっただろうから、その本意を完全には再現できずに、相手と衝突する余地を残していただろう。
以前は感情がないことを表
心を
だが最初から心が氷――あくまでも
水無月は勇樹に対してだけは豊かな感情があるのか? あると言えばあるだろうし、ないと言えばないだろう。勇樹を愛しているのは確かだが、そこには喜怒哀楽でいう喜と楽しかない。彼方のように。
勇樹といるのは楽しくて喜ばしい。勇樹が悲しそうだったら、彼方はその悲しみを取り除いて笑顔にしたいと思うし、勇樹が怒っていたら、その怒りの原因を知って、怒らなくて済むような環境作りに
勇樹関係では彼方も他者に憤りを覚えることがなくはないが、正確に言うならば、他者に抱く感情というよりも、自身の準備不足を嘆いているだけなのだ。それが怒っているように周囲からは見えるらしい。
授業を半分ほどさぼってしまったが、自習だったので構わず彼方は教室に戻った。
教室には勇樹の姿がなく、彼方の機嫌は最悪になったが、自習のプリントを素早く埋めて、机に突っ伏す。
勇樹が水無月に好き勝手に手を出されていたら……想像するだけで胃がむかむかする。
彼方の心に勇樹は住んでいる。更に言えば、彼方の心は勇樹だけのもので、そこに他人を介在させる隙間は一切ない。
しかし勇樹が彼方以外を気にかければ、彼を見つめる過程で、仕方なくそちらにも目を向けることになる。
勇樹の心に彼方以外が住まうのは、とても気持ちが悪い。彼方にとって絶対的な存在である勇樹に、異物が混じるようなものなのだ。
仮にそれが勇樹にとってプラスになるものならば、吐き気を
だが水無月は確実に勇樹を変えている。少なくとも悪い方向ではない。この不快感をどう処理したらよいのか。
彼方と勇樹が恋愛関係になった
想像するだけで、ささくれた気持ちが穏やかに
彼方だけを見つめることで勇樹がつまらなくならないように、彼方が世界を己の内側に体現できるようになれば、何も問題はない。
彼方は勇樹のいる場所に寄り添って、そこに全ての世界を展開する。我ながら涙ぐましい歩み寄りだ。彼方は勇樹の居場所で一から始めるのだから。
いつの間にか五限目は終わっていて、彼方の携帯が震えた。勇樹かもしれないと、表示を確認せずに出たのは、少し油断していたのかもしれない。
『彼方、私はお前を私の後継ぎに指名する。これは決定事項だ』
こちらが反応する前に、用件だけ話して通話を切った男。彼方を置いて出て行った父親だ。
彼方の母親から逃げ出した糞親父。相変わらず神がかったタイミングで連絡してくる。着信拒否しても毎回違う番号でかけてくるので、誤って出てしまえば、こちらが切る前に無理難題を吹っかけてくるのだ。
彼方は今父型の祖母の家で暮らしているが、あの男は絶対に実家には近寄らないので、少し警戒を緩めていたのが良くなかったか。また面倒臭いことになりそうだ。