天龍双

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5-05.待ってろ仔犬(中編)

 彼方は事あるごとに父親の会社をぐように言われているが、もし継ぐ事になったら会社の特殊な事情を受け入れることになり、勇樹に嫌われる可能性が出てくる。
 会社の特殊な事情……彼方から見れば馬鹿馬鹿しいことだが、社長の権力が分散されているゆえに、体制的に要職ようしょくの者の人心じんしんつかまなければ、会社経営が成り立たない。
 会社の組織構造的に、お金をばらまいて表面上の協力関係を得ても駄目なのだ。そのためあの会社の社長は、要職者と親友のような戦友のような関係性をきずく必要がある。
 これの何が問題なのか? 彼方にとって勇樹は唯一で絶対的な存在だ。
 勇樹が親友ならば、他に親友などできるはずがない。何故なら彼が親友という位置を望む限り、彼方は親友以上の行為を許されないからだ。
 許された範囲で彼方は勇樹を堪能たんのうするので、同じ親友というわくに他人が入る隙間すきまなどない。そして仮に勇樹に彼方以外の親友ができれば、更にはその人間に彼方が排除する理由を見出せなければ、不快感が強すぎて、とても会社のことにまでは意識が回らないだろう。
 いくら彼方に能力があっても、勇樹との関係性に左右されるようでは、社長業はつとまらないし、そもそも動機がない。
 仮に勇樹が彼方の父親の会社の理念に賛同さんどうして、彼方が社長になるのを喜び、それを恋人として支えてくれるのなら、少しはやる気が出るだろうが。
 将来父親が経営するような会社が必要になる時代は確実に来ると思うし、同じ社会に存在するのだから、勇樹にも無関係な話ではない。
 勇樹に関わる可能性があるという微小びしょうな理由だけが、完全に父親から距離を取らない一因だ。本当に彼方の希望を叶えるには、あの会社が必要なのだ。
 勇樹と彼方だけの世界を、他に対して排他的ではなく、永続的に続くものにするためには。排他的な者はいずれ外部からの圧力で足元をくずされる時が来る。だが何でもかんでも親切に受け入れればよいというわけでもない。
 友好をかかげた搾取さくしゅや、全く他意のない不完全な善意では必ず無理が生じるのだから、そこに必要なのは、善意でも悪意でもない全てが循環じゅんかんする自然の流れ。
 不自然を取り除くことだ。それは不自然を排斥はいせきするのではない。自然から離れてしまっているものを元に戻し、自然になるには成長をようするものを成長させる。
 彼方の父親の会社は、元はそのような人材育成会社だったが、今は他の事業にも幅広く手を伸ばしている。業績を上げている会社の社長は軒並のきなみ彼方の父親と面識があるらしく、経営の神様などと呼ばれるあの男は、常に引っ張りだこだ。
 彼方の進む道に時折出没する程度の認識の父親に別段言うことはない。うとましく思ったこともあったが、恨んでいるわけでもないので、わざわざ断りの電話を入れるつもりもない。
 これから彼方が確認することの結果次第で、再び父親の歩む道と、彼方の道が交差する可能性があるというだけだ。
「おい、勇樹。今日久しぶりにお前の家に泊まるからな」
 六限目になってやっと帰ってきた勇樹に宣言すると、彼は一瞬身をすくませて、慌てて笑顔を作った。
「何だよ、急に。というか何で決定事項なんだよ!」
 突っ込みが一歩遅れたのは、自習をさぼって彼方に後ろめたいことをしていたからだろう。もしかしたら彼氏がいるのに、親友といえども他の男を家に泊めてもよいのか悩んだのかもしれないが。
 彼方は勇樹の彼氏にいたく嫌われているし、こちらも向こうを心底嫌っている。だがこの嫌い方はお互いに共通しているのだから笑えない。
 早く尻尾を出して、排除させろと彼方は水無月をにらみ、彼方の忍耐力を揺さぶり、醜態しゅうたいさらして嫌われろとそそのかしてくるのが水無月だ。
 水無月は勇樹の反応次第でどんどんやり方を変えていくいやらしい男だ。彼方は己の未熟さ――悲しいことに欲で視界がぼやけて見落としてしまうものがある――で勇樹の望みを正確に把握できずに、誤った守り方をしてきた。
「勇樹の母さんにメールを送ったら、すぐに了承りょうしょうの返事が返ってきた」
「いつの間に母さんとメル友になってるんだよ! 俺の意見は!?」
「この間スーパーで会った時に交換した。別に反対する理由ないだろ? まさか無断外泊でもするのか? 俺はアリバイ作りには絶対加担しないからな」
「な、そんなことするわけないだろ! それに俺、嘘が嫌いな彼方に嫌なこと頼まないし……」
 どこまでも彼方を気遣うのがいじらしい。しかし自分で言っておきながら、彼方は勇樹が水無月の家に泊まる姿を想像して吐きそうになった。
「そんな怖い顔するなよ。俺、そんなに信用ない?」
「勇樹のことは信じてる。だがあいつのことは全く信用してないからな」
「あ、あいつって……?」
 狼狽うろたえる勇樹に、彼方は暗い笑みでこたえた。
「名前を出していいのか? お前の恋人の」
「……か、勘違いしてる可能性は……?」
 勇樹は男とつき合っていると彼方にばれたくないのか、それとも相手が水無月だから隠したいのか、その両方か。
 それ次第で彼方の取るべき行動も変わってくる。
泥棒狐どろぼうぎつね
 六限は古文だ。教師が教室に入ってくると同時に彼方が勇樹の耳元でささやくと、彼は面白いくらいに身を震わせた。
「あとでいろいろ聞かせてもらうからな」
 この授業の間くらい勇樹が彼方のことで頭を一杯にしてくれていれば、少しはこの気持ちをやわらげられるだろうか。
 この世にはあまりにも雑音が多すぎる。学校の授業で聞く価値のあるものなど一つとしてない。
 何故なら教える側の人間に、ただの一人も彼方以上に能力のある者がいないからだ。いるわけがない。
 幼少期から英才教育――あれを教育と呼んでもよいのかはなはだ疑問だが――を受けていた彼方に専門的な知識量はともかく、頭脳という面においてかなう人間がいたら、会ってみたいものだ。
 こんなことを言えば、ものすごい自信だと勇樹に驚かれてしまうだろうか。素直でかわいい彼は疑いこそしないが、そんなふうに傲慢ごうまんになって大丈夫なのかと彼方を心配してくれるかもしれない。
 だからこそ言える。こと頭脳という面において彼方は、もう少し控えめな表現をしても、世界トップレベルだと。
 そして彼方の父親は間違いなく世界最高ほうだ。父親の会社は対外的には一般的な通貨をもちいて取引しているが、すでに独自の変動する数値を次世代の基準として利用し始めている。
 複雑な計算式を必要とするが、限られた環境下以外でも実用化が進めば、人類の大いなる発展に寄与きよできるだろう。
 しかしあれらの基準が現実的に広まるには、人類は何度か滅ばないと無理かもしれない。そのくらい大きな変化であるし、実際計算式も相当に難しい。
 難しいものが普及するには、それ相応の時間をかけて環境を整えなければならない。
 彼方の父親はかなり正確に世界情勢を読み、世界経済が危機を迎える時期や、今後の動向を予測している。
 そうすると避けられない未来として、宇宙生命体の介入があるという結果が導き出された。冗談でもオカルトでもなく、まじめな話だ。
 志部の主張するようなふざけたものとは全く違い、天体の動きから、地質や地球環境の変動の推移すいいなど様様さまざまな要素を数値化して算出したものなのだが、その方程式を理解できる研究者が一人もいない。父親と彼方を除けば。
 単なる占いや当てずっぽうの予言ではなく、数字を用いた計算なのだが、それを誰も理解できなければ、そこに現れた結果が現実のものとなり続けたとしても、世間一般には受け入れられない。
 誰もついてこられないけれど、ことごとく未来を当てるものだから、彼方の父親は一時期崇拝者に取り囲まれ、まるで神のように扱われていた。
 その時に彼方の母親と出会ったらしいが、酷く宗教じみてきた周囲がいろいろと問題を起こし、それらの責任を取ってから、父親は逃げ出したのだ。獅子ししは我が子を谷底に突き落とすなどと言い残して。詳しくは聞いていないが、実家から勘当かんどうされたのもそこら辺に理由があるという。
 今でも経営の神様などと周囲にもてはやされているが、当の本人はそれらを全く意に介さないで、我が道を進んでいる。むしろどうすればそのような扱いから逃れられるかを模索もさくしているくらいだ。
 勇樹に嫌われるのが怖いのは、そういう事情があるからで、彼方と父親は規格きかくがいすぎる。オカルトでもファンタジーでもなく、現実的にこのような話をされても、勇樹は困ってしまうだろう。
 宇宙生命体の襲来しゅうらいなどと言えば、映画でよくあるような化け物的なものか、変に文明の発達した宇宙人の地球侵略を想像するだろうが、肉体を持った存在がおとずれるわけではない。
 肉体を持たない情報体が、人間の意識の隙間に入り込むのだ。個人差はあるが、乗っ取られてしまう者も中にはいるだろう。
 と、このようなことを数式で算出するのだが、いかんせん非現実的すぎで誰もついて来られない。大分性質は異なるが、既存きぞんの分野で一番近いのは量子力学辺りか。
 どんな人間でも、周囲や環境から影響を受けて生きている。環境に生かされている。
 しゅまじわれば赤くなるとはよく言ったもので、彼方から見れば、取るに足らないが、決してプラスにはならないものばかりが占める世界で、いかに勇樹のかなでる美しい音に雑音を混じらせないかに奔走ほんそうしてきた。
 美しくない、勇樹のためにならない音を彼方が打ち消すと、周囲には何も残らない。まだプラスを注ぐには至らないが、マイナスを排除する存在として、彼方だけが勇樹のそばにいるのを許される。それは彼方独自の基準ではあるが、勇樹もいつも彼方を選んでくれていたのだ。
 彼方と価値観は異なっても、辿たどり着く場所は勇樹も同じだと思っていた。それなのに勇樹は恋人に水無月を選び、彼方よりも優先している。
 水無月もそれなりにできる方だとは思う。だが彼方ほどではないと、本人も自覚しているからこそ、こちらの準備が整う前に動き出したのだろう。
 水無月の方が勝っている部分もなくはないが、あの男は最大限に長所を生かし、不利な要素を極力減らしてきている。
 どこまでも忌忌いまいましい策士男が。彼方の最大の弱点にナイフを突き立て、塩をり込むようなやり方で、勇樹を……。
「この一文を訳すには、先ほど説明したように単語の意味を――」
 それにしても取り扱う内容に比べて、授業時間が長すぎる。表面だけをすくうような解説に、生徒の興味関心に結びつかない暗記事項。
 これでは受験対策にさえならない。学校で無駄な時間を過ごすから、放課後の塾通いが定番になるのだ。
 高校受験は勇樹に彼方が教える形で、二人だけの時間をたくさん取れた。彼方のやり方でも同じ高校に行けるくらい勇樹の学力を維持できた。
 だが今はもう範囲が多すぎて追いつかない。勇樹は彼方と同じ方法ではテストを乗り越えられないからだ。彼方のように独自の計算式を利用して、勉強せずとも問題文から答えを出す方法を彼は取れない。
 勇樹の時間をくだらない勉強についやさなければならないなんて彼方は我慢ならないので、毎回渡すことはできないけれど、作り続けていたテスト対策プリントを捨てられないでいる。
 何故渡せないのか? 彼方の試験対策は完璧すぎて、まるで試験問題を盗んだかのような出来えだからだ。
 最も効率的で、確実な試験対策は何か? 出題される問題の答えだけ覚えることだ。ほぼ完璧に予測ができる彼方だからこそできることだし、勇樹もそのくらい覚える記憶力はあるだろう。
 仮に彼方がプリントを渡しても、このようなやり方は自分のためにならないと勇樹は悩むかもしれない。
 雑音を無効化することに罪悪感なんて覚えなくてよい、目の前の問題用紙をいくら見つめたところで、そこに世界などないのだから、いかに受け流すかに焦点をしぼればよいなどと、どうして言えるだろうか。
 怠惰たいだになれというわけではない。自身に混じろうとする雑音の影響を最小限にして、内から発するものの声を引き出せ。
 学生時代の勉強を与えられるままに、それを完璧にやりげることが将来に繋がるなどと本気で信じている人間がいたら、彼方はその人に手を合わせる。
 さようなら、殉職者じゅんしょくしゃ。もう二度と会うことはないだろう。素直で良い子なだけでは、搾取さくしゅされて終わる時代に突入した。
 嘘は空洞くうどう。そこに入り込む何か。起こるであろう常識外れの非道な行い。それに対抗できないのだ。そのような事態を招く悪人は、もっと悲惨ひさんなことになるに違いないが。
 世界が氷に包まれれば、世界が灼熱しゃくねつの炎でおおわれれば、まず人類は生き残れない。
 それだけ環境に左右される存在が、どうして宇宙から降り注ぐものに目を向けないのか、彼方は不思議に思っている。
 地球の変動期に、どうして宇宙が無関係だと思うのだろうか。現状の否定でも維持でもない、そのままの変化をただ見つめるだけで、きっと誰にでもわかることなのに。
 彼方の父親のように難しい計算式を用いて、証明すれば届くだろうか? いな、誰も父親と同じ目線には立てなかった。彼方以外は。
 天才は孤独だと言う者もいるが、彼方はそうは思わない。ある一定以上の能力を持つ者は、精神構造からして違うからだ。
 精神的にもろい人間はこの世の中に多いだろうが、要は外的要因に脅威きょういを感じる――そういうものをはじき返せるだけの力を持っていないのと、それをおぎなう手段を見つけられないのだろう。
 彼方は精神的に脆い天才はいないと思っている。芸術という分野においては、その脆さが反映されたものが評価されることはあるが――何故ならそれらは人の感情を揺さぶるから――それ以外で天才としょうされる存在には相応の強さがある。
 彼方の父親はそういった強さに、肉体が内包するとあるエネルギーが関係していることにいち早く気づき、それを観測して数値化することに成功した。
 しかし変動する数式が難解で、更には観測自体が今のコンピューターでは不可能なので、実質彼方の父親(とその気になれば多分彼方も)しかそれを実行できない。
 天才とはそのエネルギーが元元もともと多く、容易よういに引き出せる者を指し、鍛錬たんれんの末にそのエネルギー量を増やし、引き出せるようになった者を達人と呼ぶ――彼方たちの認識では。
 彼方と将来を誓い合うということは、これらの事情を説明した上で、勇樹の同意を得なくてはならないのだ。
 勇樹が内に持つその美しいエネルギーをもっと輝かせて、その副産物とも言えるしずくを彼方に飲ませてほしい。そこには性的接触も当然あるが、欲だけでは足りない。その奥にある純粋な勇樹そのものを彼方は欲しているのだ。
 ああ、何て楽しいのだろう。勇樹を育てて、奥深くまで味わう。そして彼が望んでくれれば、彼方自身をどこまでも注ぐのだ。
 人間の脳に未知の部分が多く、解明しきれていないのも、そのエネルギーを観測する手段が確立できていないからだろう。そのせいで随分ずいぶん人人ひとびとは苦しんでいる。
 とても悲しい知らせだが、今後奇病が流行はやるだろう。今の医学では太刀打ちできない、苦痛をもたらやまいが。
 彼方の父親はその事態を見越して準備しているようだが、果たしてその病を何人が克服できるだろうか。絶望的だ。
 症状があらわれる者は哀れにも病院に運び込まれて苦しみを増長させ、症状が出ない者は原因不明の死亡が確認される。
 特効薬は薬という形では難しいだろう。本人の内なるエネルギーを引き出せなければ、克服こくふくは叶わない。
 予防が大事なのだ。意識の隙間を無くすことで、天才たちが自在に引き出せるそのエネルギーの通り道を確立する。
 水無月が嘘を嫌うのも、嘘という空洞が多ければ多いほど、中身の詰まっていない果実のように、その体積だけで場所を取るのが邪魔なのだろう。
 ここで恐ろしい知らせを一つ。彼方は流行する奇病の発生メカニズムを把握しているただ一人の男だ。その理由は彼方が発生げんだからである。
 嘘のような本当の話で、これは彼方の父親が突き止めて、闇にほおむった事実の一つだ。
 では彼方の息の根を止めれば、病気が発生しないのか? 逆だ。爆発的に何の救いもなく広まって人類が絶滅する。
 今の科学では解明しきれていない伝達方法があるのだ。何らかの情報を抱えて生まれてきた彼方は、誰にも影響されない代わりに、誰にでも影響を及ぼせる。
 その気になれば場所を選ばず、そこにいるだけで世界中にとある情報を発信できる。
 その情報がくだんの奇病と密接みっせつに関わっているのだが、初期段階で彼方がそれを発するのをやめたため、今のところ周囲に変化はない。
 だがもう遅い。彼方はあまりにも我慢しすぎたのだ。情報を発するのが自然なのに、それを抑え込むのは自然の摂理せつりに反するようで、このままだと最悪の形で奇病が流布るふする。
 どちらにせよ奇病は発生するが、克服する可能性がまるでないやまいか、希望の見出せる病になるか、彼方が勇樹と今後どのような関係をきずけるかで変わってくる。
 彼方が生まれ持った情報には、何者も干渉できないが、当然それ自体である彼方だけは変革をうながせる。
 仮に前者の対処不能な希望がない病になったら、まず男が死滅するだろう。何としても勇樹を守らねばならない。
 父親の会社にたずさわってつくづく実感するのは、どんなに人徳があって立派な人でも、他人をしんから動かすことはできないということだ。自分を芯から動かせるのは結局自分だけで、他人はそれをうながすことで、間接的に動かしているのだ。
 当然、尊敬される上司に仕事を与えられるのと、そうでないのでは部下の反応も違うし、部下の力を引き出すのが上手い上司もいるが、芯がくさっている者は誰の干渉も受けないので、いくら優秀な上司が働きかけたところで、そういう部下はみずから一念発起しない限り腐ったままだ。そのような人間の奏でる音や色彩は本当ににごっていて、見るに耐えないが、実は彼方の力を最も発揮できる相手でもある。
 彼方ははっきり言って芯が腐っている。いや、もっと正確に表現すれば、芯が災厄さいやくそのものだ。何故なら勇樹の一番になれなければ、世界を滅ぼしても何とも思わないからだ。
 彼方は何を貰うかよりも、誰に貰うかで貰ったものに対する評価が変わる。勇樹も同様の反応を示すのは確認済みだ。
 彼方は勇樹に何もかも捧げて、その最上の喜びを、至上の輝きを堪能たんのうしたい。そのためには彼方が勇樹の一番にならなければ、最高の表情、仕草、美しい音色は引き出せない。
 勇樹が彼方の与えるものを最も喜んでくれれば、彼方は与えられるものの幅を広げるために世界をなるべく丁重に扱う。
 だがそうでなければ、彼方にはガラクタ同然で、何の価値もない。彼方の持つ情報は何の慈悲じひもなく世界をおおい、苦しみのまま人類の歴史に幕を降ろさせることになるだろう。
 本当の意味で彼方と勇樹だけの世界になる。彼方の父親と、彼に近しい数人は生き残るかもしれないが。仮に水無月がしぶとく一命を取り留めたなら、すぐに抹殺まっさつしたい。
 彼方の父親は数年以内に広まるに違いないこの病に名前をつけた。
 宇宙からの贈り物、人類進化ぜん症候群と。
 全くのお笑いぐさだ。何故そのように呼ぶのか理解に苦しむが、彼方次第でこの病は希望にもなりると彼は言う。
 全人類に天才や達人になれというのか。そうしなければ、今後の変動を乗り切れないから、最後の救いとして彼方はこの情報を持って生まれたと、本気で言うのだから彼方の父親は頭がおかしい。
 難しすぎて誰にも理解できない理論を自在に扱える時点で、大分おかしいが、もしも勇樹が彼方の父親と同じように思ってくれるのだったら、彼方も少しはこの身を大事に思えるだろうか。
 彼方は勇樹しか大事でないのだ。勇樹を大切にできなければ、何も大切にしようと思わない。
 最初からこのような事情を明かして迫れば、かわいい勇樹を重責じゅうせきで押し潰して、美しい彼を引き出すことは困難だろう。
 だから少しずつ、本当に少しずつ進めてきたのに。どうしようもない気持ちを殺しながら、勇樹に歩み寄っていたのに。
 もう限界が近い中で、どうして水無月が勇樹をさらって行ってしまったのか、考えれば考えるほど自身の不甲斐ふがいなさが憎らしくなる。
 水無月を受け入れてしまう隙間を勇樹に与えたのは彼方なのだ。もっと早くこの話をしていたら、勇樹はきっと最初から彼方の手を取ってくれていた。
 仮に勇樹には荷が重すぎても、彼方が負担をかけないよう気をつければよかっただけなのに。勇樹を大切にしたいと、かわいい仔犬を彼方のものにするのを躊躇ためらうべきではなかった。
 ああ、かわいそうな勇樹。問答無用で放課後彼の家に押しかけ、ここまで一気に話したが、彼方に後ろめたいようで一度もまともにこちらを見なかったのが、今はあんぐりと口を開けて固まっている。
「な、ななな何だってー!?」
「驚いたか? だが俺はお前さえいれば――」
「ちょ、ちょっと待って。頭が追いつかない。え? どういうこと? 彼方の父さんって、あのすごくかっこいいおじさんだよな? 二回くらいしか会ったことないけど……」
 勇樹が父親を褒めたので、彼方は面白くなかったが(勇樹にとって一番かっこいいのは彼方のはずだ)そのことは脇に置いて説明を続けた。
「すごくかっこいいは余計だが、あの食えない隙のない男が実証済みだ。いやいやつき合った実験でも、あの男の部下が罹患りかんして、一年半に及ぶ闘病生活ののちに生還した」
 彼方の父親の側近なので、それなりにできる男だったが、容赦ようしゃなく彼方が情報を解放したら、ぶっ倒れて相当苦しんでいた。
 奇跡的に生還できたのだって、彼方の父親が手を尽くしたからだろう。
「ななな、何だってー!?」
「安心しろ。勇樹はこの病気にかかる前に、俺がエネルギーを引き出す」
「ええええ、そもそもそのエネルギーって何なんだ!?」
 彼方の父親もそのエネルギーに名前をつけていないが、それは古来より呼ばれていた呼び名の方が馴染みやすいからだろう。
たましいだよ。でもこういうふうに言うと宗教的にとらえられて、変なのもくんだよな」
 彼方と父親が言っているのは、あくまでも脳の未解明な領域から発せられるエネルギー体のことだ。普通は観測できないので、神学や哲学に行き着くのも無理はないが。
「あえて言うならば、能力の開花にたずさわる道筋の確立か」
「難しくて全然わからないけど……えーっとよく映画とかである世界終末論とか最後の審判的な……?」
「ああ、あれは違う。人間や宇宙人が手を下すわけじゃない。一応言っておくが、神という存在がいると仮定しても、神が怒りの鉄槌てっついを下すわけでもないからな」
 未知に何かを見出してすがりたいのだとしても、そこにあるのはけた違いの情報、生命体。その末端に触れるだけでも、人は感じるだろう。ここから生まれ落ちたのだと。
 否定も肯定も、感情から来るものならば、全て無に還そう。そうすれば帰り道がわかる。どこから来て、どこに帰るのか。もう何も不安に思うことはない。
 空洞を埋めよう。そうすればきっとこの場所にいながら、生まれた場所に帰れるから。
「勇樹、俺は……」
「えええええ!? ちょ、彼方お前すごい顔になってるぞ!?」
「ああ、気にするな。お前の情報を観測して、そこにある水無月の残滓ざんしに発狂しそうなだけだから」
 あの変態水無月は、お互いの家に泊まることもあった彼方が寝ている勇樹にこっそり手を出したと決めつけているだろうが、一度もそのようなことはしたことがない。
 キスも、それ以上の接触も、たった一度だって。いや、初めて会ったあの時に本当は全部済ませているけれど。脳内シミュレーションでは。
「情報の観測!?」
 勇樹が仰天している。一般的に観測には機械等を用いる印象があるだろうが、能力を発揮できる人間以上に高性能の機械は現代には存在しない。
 それも当然か。そのようなことが可能ならば、とっくに人間と遜色そんしょくないアンドロイドが生まれている。
 恐らくこの世で彼方と父親以外にはできない観測手段で、常に彼方は勇樹の反応を確かめてきた。
 エネルギーを放出して多様な情報を提示し、寝ている勇樹の反応から好みを探ったり、体調を調べたり、基本的にお泊まりした日に彼方は眠らない。ずっと勇樹を見つめている。
 決して肉体的には触れずに、勇樹の情報を確認しているため、やはり取りこぼしはあった。それがこの結果を招いたのだ。
「おい、彼方。顔がやけに近いぞ。もう何が何だか……」
 ここまで間近でじっくり勇樹を見るのは久しぶりだ。
「驚きすぎて、彼方に俺が薫先輩とつき合ってるのがばれたことなんて、些細ささいなことに思えてきたよ……」
「俺は最初から知ってた。精神的に死にそうだった」
「……ごめん。俺、初めての恋に浮かれて、親友のことないがしろにしてたよな」
 反省した様子の勇樹に、彼方は改めて自身の想いを伝える必要性を感じた。
「勇樹、俺はお前と――」
「うう、いててて! ずっと正座してたから、足がしびれて……」
 彼方の剣幕けんまくに押されたのか、あまり得意でない正座で固まっていた勇樹が、予想外の動きでこちらに倒れ込んできた。
 告白の言葉に集中しすぎてそれを支えられなかった彼方と、勇樹の顔がぶつかり、ちょうど唇同士が触れ合った。
 刹那せつな、彼方は命を落とした。そして新しい自分に生まれ変わったのだ。精神的に。
 それだけ勇樹と初めてのキスは衝撃的だった。同時に彼方に降り注ぐ勇樹の情報。
 プライバシーに配慮して、勇樹に関する情報取得を制限していた彼方にとっては、見るだけよりも触れる方が得られる情報は多い。
 だから気づいてしまったのだ。勇樹の唇の柔らかさが想像以上で、少しだけふやけた思考になっているが、彼方は水無月よりも勇樹の心に心配の種をいていると。
 更に水無月がどのくらい勇樹に触れているかもわかってしまって、それが彼方の理性を崩壊させた。
「あの野郎、よくも俺の勇樹にみだらな情報を注ぎやがって!!」
 水無月に本気で殺意を抱いたが、同時に彼方は勇樹の心境を理解もしていた。
「俺とする方が良いよな? キス」
 この言葉だけ聞くと、彼方が自信過剰かじょうか、単に頭がおかしくなったかのようだが、勇樹の反応から得た彼の深層心理だ。
 いや、本当に願望ではなく。
「え、いや、その何かごめん、って、意味不明だぞ!?」
 勇樹は無意識下で彼方に寄り添いたいと思ってくれているようなので、水無月に愛を注がれるよりも、彼方に愛を注ぐ方がその魂は輝く。
「俺は勇樹とキスしたい。何故ならその方がお前は美しくなるからだ」
「ななな何だってー!?」
 混乱する勇樹が慌てて彼方を押し返してきた。
「さっきのは事故だし、観測ってよくわからないけど、親友と恋人で張り合う必要ないからな! そもそも俺には薫先輩がいるからお前とキスしたら浮気になっちゃうだろ! 俺も浮気は嫌だし、彼方はもっとそういうの嫌いだろ! 目を覚ませー!!」
 彼方は発狂した。

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