2-01.こっち見ろ仔犬
誰も自分に敵う者なんていないと、幼い頃は思っていた。一番身近な大人――母親が男にだらしなかったせいか、周囲の大人よりも鋭敏であることを自覚していたからか、七瀬彼方は随分と傲慢な子供だった。
今もその名残はあるだろう。狭い世界しか見ていなかったため、あまりにもふしだらな母親への嫌悪が女全体に向いたし、不誠実な父親が彼方を置いて逃げてしまったので、人間不信になっていた……というのが表向きの理由だ。
彼方は異常に思われるくらい普通を演じてきた。異端であるということは、それだけで厄介ごとを呼びやすい。しかし集団に属するよりも一人でいる方が動きやすいから、そうしても不自然ではないように問題のある家庭で育ったというのを隠さずに、少しばかり斜に構えたいつも不機嫌な子供だった。
そうしなければこんな簡単に手に入れられなかっただろう。悪い意味でも良い意味でも目立つ彼方を七瀬勇樹は放っておけなかった。
集団行動を拒否する彼方の頑な心にぶつかってきた勇樹は、素直でまっすぐで、冷たくあしらう彼方を皆の輪に入れようとして。そこに打算なんてなくて『だってお前も一緒の方が楽しいじゃん』と、たったそれだけの理由で。そうすることが彼方のためになると思って、何の迷いもなく手を差し伸べてきた。
『俺、自分が寂しがり屋だからなんとなーくわかるんだよな。お前ってかなり捻くれてるけど、本当は寂しいんじゃないか?』
勇樹の言葉が胸に響いたのは、彼に彼方の弱みを攻撃する意図がなく、こちらを思い遣ってのものだったから――というのは、他者への説明用の理由だ。(説明なんてしないけれど)
発言者が勇樹で、更には裏がないことが、彼方の心を一層動かしたというのが真相だ。自らが欲する人物というのは、心が一番わかっている。初めて会った時から勇樹は彼方の恋心を刺激するかわいい男の子だった。こんなにいとけない存在がこの世にいるなんてと、心底感動したものだ。
勇樹は一般的にも好ましい人柄だが、彼方にとっては彼が彼であるからこそ特別で、むしろ世間から評価される部分よりも彼の短所と呼べるところの方に魅力を感じた。勇樹は注意力散漫でよくものを壊したし、落ち着きがなくてしょっちゅう脛を机の足にぶつけて蹲るなどおっちょこちょいなところもある。そういうところが……正確にはそうなってしまう理由が愛おしくて、彼方は勇樹をからかって愛でている。
彼方の勇樹に対する想いは、友情の域を越えている。深く触れ合うことを強く求めていて、ただ傍にいるだけでは満たされないのだ。
勇樹が欲しい。彼を独占したい。あの無垢な瞳を、彼方の色で染め上げたい。どうしようもなく心と身体が彼を欲している。勇樹が注意力を欠いたり、ドジを踏んだりするのは無意識に普通とは違うことを恐れているからだ。自分の異質さが表出しそうな時に、その発覚を遅らせるように焦って物事をうまく進められなくなる。
大切なものを守ろうとして空回る姿のなんて愛らしいことか。勇樹は元気に振る舞うかたわらで常に何かに怯えて生きている。仔犬のように落ち着きがないのも、怖くてゆったりできず、じっくりと腰を落ち着けられないからだろう。
勇樹の怖いものが何か知っている彼方はついついいじわるして、彼が困るようなことをしてしまう。それは怖いものではないと優しく諭してあげられるほど彼方は気持ちが穏やかではなかった。早く勇樹を自分のものにしてどこかに閉じ込めてしまいたい。今の段階で実現できないのはわかっているが、気ばかり急いてしまう。
直接向けることのできない想いが、勇樹に伝わるのが彼方は怖かった。準備の整っていない彼に気持ち悪がられたら立ち直れそうにないし、今度こそ怖がられても途中で逃がしてやれなくなる。
勇樹が女――大抵スタイルが良い――を好きなのは……好きになろうとしていたのは知っている。近くで彼が振られ続けるのを見ていたのだ。
彼方にはない女の柔らかさに焦がれる勇樹を目にする度に、彼女らへの憎しみが募った。母親のような女ばかりではないとわかっても、今度は違う理由――性別だけで勇樹を一時的にでも彼方から奪っていく可能性がある女全般が嫌いだった。
勇樹はいまだに彼方が母親のトラウマから脱却できていないと思っているようだが、実際は直接的な脅威が原因だ。現在は母親に煩わされることもないのだから、どうでもいい。仮に勇樹が彼方の母親に惹かれるなんてことがあれば、永遠に埋まらない溝が生まれるだろうが。
彼方は勇樹と友達以上の関係になりたいが、親友という立ち位置を越えるには大きな壁があった。性別云々の前に、彼方は非常に照れ屋なのだ。プライドが高いのもあって、かわいくて幼い勇樹に合わせておままごとのような恋から始めるのにものすごく気恥ずかしさを感じる。彼方は歌のお兄さんにはなれないタイプだ。
勇樹の方から触れてくると意識し過ぎてそっけない態度を取ってしまうし、自分からは友情の範囲内のスキンシップが精一杯で、恋愛にまで発展させるためにはもっと彼方が素直になる必要がある。
「仔犬、今日の昼が放送当番だってわかってるのか?」
彼方が声をかけるも、勇樹はぼんやりと頷くだけで、物思いに耽っている。最近ずっとこんな感じで、彼方としては面白くない。
もっとこちらを見てほしい。喩えその瞳から親愛の情しか読み取れなくても、勇樹の目が彼方の方を向いていれば、この穏やかでない胸中を宥められる。
「仔犬! お前どうしたんだよ。変なものを拾い食いでもしたのか?」
「まさか……俺は仔犬じゃねーし」
いつもより反応が薄い。
「自分でも変なのは気づいてるだろ? 勇樹らしくない」
「……なあ、俺らしいって何だろう。俺って周りからはどんなふうに見える?」
こんな質問をしてくる時点でおかしい。勇樹はお世辞にも頭脳派とは言い難いし、言葉よりも感覚で理解するタイプだ。
「元気で騒がしくて、お節介な仔犬。お前が静かだと俺まで調子狂う。馬鹿が考え込んでも、ろくなことにならないぞ」
勇樹は今まで通り、彼方にじゃれついていればいいのだ。
「失礼なやつだな。俺、そこまで馬鹿じゃねーし。いつまでも仔犬のままじゃいられないだろ」
やはり仔犬だ。散々否定しておきながら、自分で認めている。
「言質は取ったぜ。仔犬はいくつになっても仔犬だろ。それ以上身長が伸びるとは思えないし、騒がしいのは変わらないさ」
これは彼方の願望だ。勇樹にはいつまでも仔犬のままでいてほしい。彼方のものになってくれないなら、雌犬に発情しない仔犬で成長が止まればいい。虚しくて仕方ないが、飼い主としてかわいがってやることくらい、彼方にもできる。
そんな魔法が使えたらいいなんて、本心をごまかした願いは、然程強くない戯れのようなものだ。
「自分が背高いからって調子に乗るなよ! うちのじいちゃんなんて昔は180あったのに、今じゃ30センチも縮んだんだからな! でかいやつほど落差が激しいんだ!」
仔犬に身長の話題は禁句だ。前にも母方の祖父の話は聞いたが、騙されているのだろう。信じたいだけかもしれないが。
「155センチの仔犬が縮んだら、目も当てられないな」
彼方よりも三十センチ低い勇樹は抱き締めやすい。
「うるせー! 俺は高校で31センチ伸びて彼方を抜かしてやるんだ!」
微妙に現実的な数値を出してきたが、それでも実現不可能であることに変わりはない。
「夢を大きく持つのは結構だが、現実を見た方がいいぞ。胴が伸びたらどうするんだ?」
「ダジャレかよ! 言っておくが、俺は身長の割に足が長いって、親戚のおばさんに褒められたことあるんだからな!」
「脛の長い仔犬は、将来大きくなるはずなんだが……」
勇樹には当て嵌まらないらしい。彼をからかいながらも、彼方は満たされない心を感じていた。
言葉を交わすだけでは辿り着けない境地――勇樹の深い部分に触れたいという肉欲に抗うのは、骨が折れる。早い話が、彼とそういう関係になれば落ち着くのかもしれないが、一体どうすれば合意を得られるというのか。
ただでさえ勇樹は性的なものを怖がっているのに、彼方の欲望をぶつけたらますます萎縮してしまうかもしれない。
こんなことばかり考えていると、まるで勇樹の身体だけが目当てのように見えるが、愛するがゆえの男の生理的欲求だ。さまざまな障害が彼方を押し止めている部分もあるが、最も大きな要因が自身の気恥ずかしさなのだから笑えない。
なぜこうも照れてしまうのか、彼方はその理由が痛いほどわかっている。単純で、どうしようもなく大きな原因。彼方は勇樹のことが好きで好きでたまらないのだ。大切で、誰よりも優しくしたいのに、恥ずかしくてそれを実行できない。それを実行するにはもっと彼方も納得できる形で舞台を整える必要がある。
彼方にとって勇樹は何よりも愛しい存在だ。しかしこのままでは誰かに先を越されてしまいかねない。幸いなことに、彼は女にもてないが、可能性が全くないわけでもないので、早急に手を打たねばならない。
前々から密かに実践している女への不信感を煽る話に、歴史的な衆道の解説を散りばめた見解の擦り込みは効果があるのかどうか。
「俺って今まで本当に人を好きになったことあるのかな……お前が俺を仔犬ってからかうのも、そういうところを指してるのか?」
いきなり本題に近い話題を投げ込まれて、彼方はうろたえた。
「え? いや、別に特別そういう部分を取り上げてるんじゃなくて、仔犬は仔犬だからな……」
変な返答をしてしまったが、勇樹は気にしていないようだ。
「そうか……俺も仔犬から卒業しないとな……」
どうして急にそんなことを言い出したのか知らないが、勇樹が彼方のあずかり知らぬところで恋愛に目覚めては困る。
「仔犬には仔犬の良さがあるんだから、無理に成犬になろうとするなよ! 今はそのままでいろ!」
うっかり本音を漏らしてしまったが、勇樹はなぜか嬉しそうだ。彼方が勇樹を仔犬から成犬にするのだ。
「励ましてくれてありがとな。俺、がんばるから」
励ましてないし、がんばらなくていい――という言葉は、勇樹の笑顔を前に喉の奥でつかえた。彼方には彼の笑顔を曇らせるようなことはできない。
「お前らの会話ってなんだかな……」
近くで聞いていたらしいクラスメイトの小岩が生温い目を向けてきたが、彼方はそれどころではなかった。
「何かあったのか? まさかまた誰かに告白されたのか?」
勇樹のこの様子から察するに、今度は勘違いでも誤解でもなく、真剣なものだった可能性が高い。
「何かあったとしても今は何も言えない。お前の方こそ俺に報告することがあるんじゃないか?」
仔犬のくせに隠し事をする気らしい。彼方も人のことは言えないが。この気持ちを伝えないで傍にいることは、罪になるだろうか。
「俺の方は別段……」
思い当たる節はないが、もしかしたら彼方の悪巧みを指しているのかもしれない。
「放送委員長のことか?」
一年の時から所属している放送委員会の現委員長の熱烈な後押しで、彼方は放送委員長に立候補することにしたのだ。対抗馬がいないので、現委員長の意向を汲んだ演説をして体育館を凍りつかせ、勇樹の慌てふためく顔を楽しもうと思っていたのだが。
彼方の悪ふざけで周囲に引かれても、勇樹が取り成してくれる――正直なところ、周りの評価よりも、彼が彼方のために一生懸命動いてくれるのが嬉しくて、つい悪いことをしてしまうのだ。勇樹の取り成しがなくても別に彼方は困らないが、あればそれはそれで面白い。
「もう届出をしたんだろ?」
わざわざ確認してくるということは、それなりに思わくがあるのだろう。
「面白そうだからな。まさか仔犬も出馬するつもりか?」
冗談半分だったのに勇樹が頷いたので、彼方は眉を顰めた。
「誰の差し金だ? 水無月か?」
問うたものの、水無月薫以外には考えられない。
「呼び捨てにするなよ。薫先輩すごく心配してたんだからな」
勇樹が水無月を名前で呼ぶのに酷く苛立つ。彼方の目の届かないところで、こそこそと勇樹に接近してきた水無月を憎らしく思う。
以前から警戒はしていたのだ。あの男は、彼方と同じ目で勇樹を見ている。今まで表立った動きがなかったので藪蛇になると下手に排除できなかったが、仕掛けてきたのなら容赦はしない。
「勇樹が悩んでたのは、俺と対立するのが嫌だったのか?」
彼方は物事を正確に捉えるために、憶測では動かないようにしている。全身全霊で勇樹の動向に注意を払う彼方の予測は、最悪なことに的中した。
「いや、まあ、もちろんそれもあるけど……」
目を泳がせ、うっすらと頬を赤くする勇樹の顔には、水無月に告白されたと書いてある。
「やっぱり誰かに告白されたんだろ? 嫌なら相手の詮索はしないけど、勇樹が元気ないと俺も心配だから、それだけは教えてくれよ。体調が悪いわけじゃないんだろ?」
腸が煮えくり返るのを隠して聞けば、勇樹はおずおずと頷いた。
「ああ。前から俺なりに恋愛について考えてたんだけど、告白されて更に掘り下げるようになって……」
「もう返事はしたのか?」
「いや、もう少し相手のことを知ってからでないと……」
水無月に押され気味らしい。
「保留ってことは、つき合う気ないんだろ? あんまり待たせて期待させるのも酷だから、早く断った方がいいぞ」
もっともらしくアドバイスすれば、勇樹の瞳が揺れた。
「俺、考え過ぎて頭がパンクしそうなんだ。一体どうしたら……」
勇樹の脳裏を水無月が占めているのは気に食わないが、それだけ悩んでも答えが出ないのは、心が求めていない証拠だ。なぜなら勇樹の恋心は本人も無意識に固く厳重に封印しているのだから。その封印を解くのは彼方だ。
「断り辛い相手だからお前も悩んでるんだろ? そういう時は、心に正直に思ったままを伝えてお別れすれば、相手も納得するだろ。相手の神経を逆撫でするような断り方はしない方がいいとは思うが」
本当はこっぴどく振ってほしいという内心はおくびにも出さない。
「心に正直に……俺、多分断りたくないんだと思う」
勇樹の爆弾発言に、彼方は白目を剥きそうになった。
改稿:2018-10-31