2-03.こっち向け仔犬
今まで我慢してきた気持ちを抑えられなくなるのはどういう時か。守るべき一線を越え、不文律などまるでないかのように、土足で大事なものを踏み荒らされたら、誰だって憤るだろう。
七瀬彼方にとって、水無月薫のしたことは許し難い悪行で、叩き潰さねばならないものだった。
「彼方君がやる気になってくれて嬉しいよ。僕たちで天下を取ろう」
至極まじめにこんなことを言うのは、現放送委員長の志部誠だ。彼は地味な丸眼鏡を掛けた傍迷惑な男だが、破壊を目的とした場合、これほどやりやすい者もいない。
彼方と志部の利害は完全に一致していて、思想に差はあれども、共闘することで水無月の目論見を挫く助けになる。
「勇樹のやつがまさか立候補するとは思ってなくて、楽観視してたのですが、こちらもしっかり計画を立てないといけませんね」
彼方はこういう時に不自然に思われない程度には、普段から外面の良さを保っている。志部に対しては殊更だ。彼は自分に好意的な相手には面倒見の良さを発揮して、驚くくらい協力的になる。
「僕が全面的にバックアップするから大丈夫だ。僕が部長を務める新聞部でも大々的に彼方君のことを取り上げるし、水無月君の印象操作をしてイメージダウンさせれば、彼方君に一層有利になる」
そして志部の目的達成のためには、さらりとこういう手段を用いようとするところが、利用しやすい。自らを上げるためにライバルを蹴落とそうとする者は、本質的な向上よりも余所に目を向けがちだから、気を逸らさせることも容易く、彼方に都合のよい方向に誘導しやすいのだ。
「勇樹は単純ですけど、水無月は曲者ですよね」
彼方は志部の前でも水無月への不敬を隠さない。単に取り繕う必要がないからだ。
志部はわかりやすく水無月に劣等感を抱いていて、表立って喜びはしないが、彼方の態度に暗い喜びを見出しているのが窺える。
「僕は彼方君のように同じ志を持った後輩に放送委員長になってほしいんだ」
志部は自身に陶酔するように信条を語った。
「なぜ人間はかくも愚かなのか。それは自分たちが人間だと自覚していないからだ。人間は万物の霊長ではない。人間は地球上では覇権を握っているかもしれないが、宇宙に出たら宇宙服なしには生存できない脆弱な存在で、自らの分というものを弁える必要がある。人間は地球で生まれ、地球で生きていくのに最適の肉体しか持ち合わせていない。何も僕は宇宙への進出論を否定しているわけではないが、その前に地球をいかにして守るかを考えるべきじゃないだろうか? 宇宙人の中には肉体を――」
志部は歪な男だ。宇宙人に対して憧憬に近い憎しみを抱いており、それを正当化しようとするから、卑屈で、雄大で、他者の理解を得られない。なぜなら志部の言う宇宙人とは今までの常識を覆すものではあるが、必要な改革を指しているからだ。勝手に宇宙人扱いされている校長が気の毒ではある。
志部が何と戦っているのか知らなければ、周りはしらーっとした目を向けるだけだろう。志部は我が校の校長が中心となって進めた指定校の推薦制度の改革が気に食わないから、勝手にそれに関わる人物を宇宙人扱いしているだけなのだ。本当にくだらない。
生徒全員が指定校の推薦を狙うわけではない。限られた者たちの中で更に少数派である志部に不利になる事柄に反発しているというわけだ。そんな周囲との温度差がますます志部を意固地にさせるのだろうが、彼方には彼が自分で負の連鎖を好んで作り上げているように見えた。恐らく向き合いたくないものを無意識に遠ざけているのだろう。
「志部先輩のお話は、いつもいろいろと勉強になります。先輩の影響で俺も宇宙について深く考えるようになりましたが、先輩の見解はやはり違いますね」
彼方は思ったことを偽らない。ものは言いようだ。ごまかすという行為は取り繕うために嘘を重ねねばならず、思いもしないことを口にするのは、自らを摩耗させる。
人は慣れれば毒すらも摂取を躊躇わなくなるが、それは感覚が麻痺したに過ぎない。そのことに気づかない者は、それに見合ったものしか手に入れられず、永遠にもがき続ける。その苦痛から逃れるには自らも毒になるしかないが、毒になってしまったらもう二度と毒になる前の清らかな思いは戻ってこない。
だから余計大人は昔を……毒になる前の自分や周囲を綺麗なものとして心のどこかに保護しておきたくて、過去を懐かしむのだろう。毒に侵されずに大人になるには、より強い毒を生成してそれを制する以外にないのが現状だ。
「僕の話について来られるのは、この学校でも彼方君くらいだよ。そんなに難しいことを言ってるつもりはないんだけどな……」
志部は空回りしていることを自覚していないから、皆に相手にされないのだ。彼は故意に自身の本音から目を逸らしている節がある。唯一の救いは、他者を騙す意図がないことだろうか。ある意味で彼は純粋なのだ。
だが志部の一方的な視点の羅列では、共感を呼ぶことはできない。
「俺は志部先輩のおっしゃることが難しいとは思いませんが、結構周りは宇宙人という単語で遠いことのように感じてしまうのかもしれませんね」
彼方が志部と話す時に心がけているのは、ごく当たり前のことを素朴に敬意を持って伝えることだ。志部のような人間に強硬な物言いをしても、反発されて終わる。彼が他人の反応に納得できないのは、自分と同じように考えるべきだという柔軟性のなさを修正する思考がない上に、他人に否定されると揺らぐ自己を修復する力がほとんどないから、相手を徹底攻撃して潰す以外に己を保てないのだ。
「そうなんだろうね……新聞部ではたびたび宇宙人特集を組んだし、僕の放送当番の日は必ず宇宙人の話題を上げたんだが……水無月君にずいぶん却下されたから、あまり広まらなかったのかな……」
外に原因を求めるのが志部の敗因だ。自省のない人間が彼方は嫌いだが、そういう感情を抱くのは、恐らく怖いからだろう。もし彼方が志部と同じことをしたら、唯一の突破口を見失ってしまう。
彼方と志部の違いは、外にある原因を自分に関わるものと判断するか、敵として排除しようとするかだ。後者である志部は敵を屈服させてその上に立つことで優越感を得て満足するタイプだが、それらの原因も自分に関わりがあるものだと考える彼方は、敵対はせずに根本からなくそうとする。根本的に解決しなければ問題はなくならないのだから。
良くも悪くも彼方には今まであったものを本質的に保護しようという気持ちがない。攻撃が最大の防御というのとは少し違い、殺戮こそ最大の進化とでも表現しようか。もちろん殺すというのは比喩だが、物事が根こそぎ絶命したらそれは殺したと言って差し支えないのではないだろうか。何かを保護するのは一時的なもので、その本質は淘汰とより優れた形への再編成だ。
それだけ彼方は勇樹に愛されたいのだ。異性愛が常識の世界に生きている勇樹に愛されるために、誰よりも賢く、誰よりも強く、誰よりもかっこよくなって彼を魅了したい。
志部を水無月が抑えていたのは、放送委員会の心証を悪くしないためだ。本来ならば、志部のような男は無視されていた。そうなれば彼は、その理由を自分以外から探そうとして停滞し、思い詰めた挙げ句に放送室を占拠でもして、停学を食らっていたのではないだろうか。
爆発してもその程度の男なのだから、放っておいて害はないが、水無月はあえて自分が間に立つことで、志部をある種のどうしようもないけれど、相手をしてやるべき変人にまで格上げした。
その方が後輩――正確には勇樹だけを指す――に器の大きさを見せられ、尊敬と親しみの念を持ってもらえると踏んだに違いない。確かに好感度は上がるだろう。
もし勇樹の言うように、水無月が本当にお優しいのなら、いなすだけに留まらず、喩え無駄だと予想できても、志部に本気でぶつかっていたはずだ。
水無月は自覚のある薄情者だ。彼にとって志部は、勇樹に好ましく思われるために一時的に封じていた、放送委員会の患部のようなものだろう。
「水無月はそういうところ抜け目ないですからね。路線が違うとやりにくかったでしょう」
彼方が声に労いを滲ませると、志部は食いついてきた。
「そうなんだよ! 水無月君は僕の主張をことごとく流して、一種の放送委員会名物のような、誰も本気で取り合わない風潮を作ってしまったんだ!」
敵の手腕は見事だ。本来なら白眼視されていた志部を、水無月はうまく馴染ませた。
「水無月のやり方は癪に触りますけど、一般受けを狙うとなると、明るい方面から攻めていくのもいいかもしれませんね。志部先輩は面白い人という見方が広がってますから、それを活用して、今回は親しみやすさを前面に出した演説をしてみてはいかがですか?」
志部は理論で武装しようとするから、とにかく固いのだ。勝ちに行くのなら、不安要素は極力減らしたいが、彼を説得するには細心の注意を要する。
「なるほど……不本意ながら僕にはそういうイメージがあるようだから、笑いのエッセンスを加えることで、エンターテイメント性を高めれば、興味を持つ人も増えるかもしれないね」
志部をその気にさせるのは簡単だが、彼方の予想の斜め上を行くのが常だからだ。いつもなら彼方は志部のやることを好き勝手に煽り、その後は高みの見物を決め込んでいるが、今度ばかりはそういうわけにもいかない。単なる自爆では困るのだ。
今回の選挙戦で、志部は解体不可能な爆弾のような存在だ。いかに相手の陣営で勇樹を巻き込まずに破裂させるかが戦略の鍵となる。
水無月は志部がおかしな発言をすればするほど、それと対比させるように勇樹のまともさを訴え、正当な方法で勝利を得ようとするだろう。そうすることが一番勇樹に喜ばれるとわかっているから。
彼方はそんなお綺麗なシナリオ通りに進める気は全くない。水無月が本来の彼からは遠くかけ離れた純粋な勝負を演出しようとするのは、勇樹を取り込むために誠実な男の顔を見せたいからだ。
すぐにそんな化けの皮は剥がれるし、あくまでも隠し果せるつもりならば、彼方がその醜い本性を白日の下に晒してやる。
彼方と同じような捻れた想いを抱えているのに、勇樹に負担を強いる形で水無月だけが受け入れられるのは道理に合わない。そんなことは許されないし、彼方が許さない。嫉妬と不条理に対する憎しみでどうにかなってしまいそうだが、彼方は冷静に水無月に標準を定めた。
彼方が素直になれば、この苦しさからは解放されるだろうが、それでは勇樹を困らせるだけだ。仮に勇樹と結ばれても、彼方では彼の要望に応えられないことがたくさんあるし、それを上回る幸福で彼を満たすには、まだまだ力不足だ。勇樹が欲するもの以上を彼方は与えてやれるが、それを本人が求めなければ全ての憤りが彼と自分以外を破壊し尽くすまで収まらないという激情を今はまだどこにも向けられない。
彼方はもっと己を高め、勇樹に相応しい清らかさ……幼い子供に提示しても問題ない立ち居振る舞いを身につけるまでは、この想いを胸に秘め、彼の傍にいるに留める。彼を一時的にでも保護するためだと思えば、耐えられる。
彼方は先々を考えた上で自らを雁字搦めに縛っているからこそ、勇樹よりも自分を優先する水無月が殊更憎かった。
自身の欲求よりも勇樹を大切にしている彼方を嘲笑うかのように、自己中心的な水無月が悪びれもせずに、その卑しい欲望を叶えようとしている。彼方が大事に守ってきたかわいい仔犬を欺いて。
「志部先輩の発想はさすがですね! 水無月の作ったイメージを逆手に取って彼を巻き込み、勇樹が委員長よりも副委員長に向いてることを印象づけましょう」
志部を放送委員長として増長させ、致命傷になり得る存在にまで成長させたのは水無月だ。
「新しい試みというのは、こうも胸が躍るものなのか。さまざまなアイディアが次々とわいてきたよ。台本ができたら、真っ先に彼方君に見せるからね。君の意見も取り入れ、更に発展させよう」
耳に優しい意見だけが、志部にとって尊重するべきものなのだ。彼方の水無月に対する悪意に塗れた後押しで、せいぜい踊り狂え。
彼方は勇樹を守りながら、志部と共に水無月が散る様を楽しもう。こういう時だけは、勇樹の意向を無視しても胸が痛まない。彼を本質的に守るためなのだから。
高校生の選挙戦らしからぬ様相を帯びてきたが、彼方は美しい箱庭からの脱却に貢献しているとすら言える。彼方が敵を葬る時はその世界ごと葬送するから、大きいものから手にかけていく。
純粋な勇樹には思いも寄らない悪意を網羅して、彼方は示してやるのだ。それを上回り、勇樹を守ってやれるのは彼方だけだと。見えないことが存在しないことにはならない。影響されないこととは別だけれど。
正々堂々と、礼儀正しく、公平に競いましょう――水無月が掲げた指針には反吐が出る。色恋沙汰にはそんな気さらさらないくせに。彼は彼方を躊躇なく崖から突き落とすだろう。勇樹だけを安全地帯に避難させて。
真の悪人は無菌室を作ることから始めるのだ。そこで育った子供ほど管理しやすい者はいない。人を支配したがる者は、対象者の骨をそうとは悟らせずに抜くことから始める……彼方のように。彼方は勇樹を無菌室で育てていたようなものだ。目的は勇樹を支配することではないので、そういう意味での悪人ではないが、常識で考えるなら極悪人だ。その常識を壊すから彼方は勇樹の救世主になれる。
ずっと彼方にガードされていた勇樹は子供に近い純粋な男だ。それゆえに見える範囲が狭いから、何も知らずに綺麗なままでいられる。水無月はそんな勇樹の視野を広げようとはしないだろう。
学校という小さな集団に属していて、情報を得る手段の限られた勇樹は、どんなに染めやすいだろうか。少量ずつ毒を与えていけば、いずれ毒を毒とも思わなくなる。思いついても彼方がやらなかったことを、水無月は実行しようとしているのだ。なぜ毒を毒のまま残しておくのか彼方には理解できない。毒は役目を果たしたら消えるものだろう。
閉じられた空間に、変質した思想ウイルスという毒を投入すれば、抵抗力のない人間に感染は広がり、他の毒を持っているゆえに罹患しない少数派は潜伏する。仮にその病を克服する善人が現れても、ウイルスの繁殖力には敵わず、圧倒的な数の暴力で鎮圧されるだろう。むしろ中途半端にウイルスを叩く方が悪だと錯覚させるウイルス自体が持って生まれた情報――ある程度壊し切るまで剥がれることのない表層的な善良性を看破できない限り、いいように蹂躙される。
これはウイルスの特性だと彼方は思っている。ウイルスの目的は破壊で、まず狙うのはウイルスの目的を果たす障害となる最も大きな世界を支える要素……この場合は、学校という場所が型にはまった教育機関であるという現状を壊す目的で、彼方が破壊という部分でだけ利害の一致した志部ウイルスを放ち、仮に志部が勝とうが負けようが、生徒たちの認識を壊せば成功だ。ある程度状況が落ち着いてから潜伏していた彼方が立ち上がって、以前のものより優れた提案で再構成すればいい。
志部は今後の学校の発展――より優れた形での指定校推薦者の選定によって学校の評判を上昇させ、それを後輩に繋げていくという未来への投資――よりも利己的な保身を優先して、今自分に有利な制度を変えることを拒んでいる。ただそれを表立っては言えないので、宇宙という皆が共有する大きい事象を引っ張り出してきて珍妙なネガティブキャンペーンをしているのだ。有能な校長が改革路線を打ち出しにくい空気作りに躍起になっているものの、結果的に自分の首も締めている。
誤解されそうだが、彼方はそもそも校長派だ。校長が指定校の推薦制度を変えることは時代の流れに合った合理的な選択だと思っている。だからこそ今までもずっと志部が自爆する路線をどんどん推奨してその醜態を表立たせていたのだ。志部ウイルスという毒は最後には大きく破裂して周囲を巻き込む形で跡形もなく消え去るだろう。
しかしそれに反して中途半端に志部を殺さず生かさずの方向で押し留めていたのが水無月で、今回に至っては彼方ごと沈没させようとしている。
物事を停滞させることで放送委員長選挙の本質が現れるのを遅らせて、水無月は彼方を潜伏者のまま出てこさせない気だ。彼方が勇樹に告白しない理由をすっかり見通して、この対決の根幹から勇樹を引き離し、それによって生じる厄介ごとで足止めすれば彼方という邪魔者は出て来られなくなると、この対決を用意した。全部計算ずくの告白なのだ。小賢しく陰湿な水無月らしい計画だ。
水無月薫は公正公平を謳った生粋の捕食者だ。弱肉強食を否定することこそが欺瞞だと知った上で、そうしたがる者を煽動する。そこだけは志部と利害が一致しているのだろう。志部はある程度己の無能さを知った上で、自分が頂点に立てる方法を模索して、放送委員会革命を掲げている。
形を変えているだけで、強者が弱者を貪る構図はそのまま残っており、詐欺師などはその典型だ。彼らは善人を騙すのではない。詐欺は悪、被害者はかわいそうという感覚が一般的だろうが、その認識は物事を正確に捉える妨げとなる。
詐欺師が狙うのは弱い部分だ。攻めやすい、守りが甘い箇所を的確に見抜き、つけ込む。寂しい人間、不安を抱える人間、主体性のない人間、他人頼みな人間、老いぼれた人間、無知な人間、幼く経験のない人間、無防備な人間、考えの浅い人間、色に溺れる人間、傲慢な人間、どれも絶好のカモだ。
自然界では当たり前に行われていることを、人間だけが見ようとしない。現実を直視せずに、理想だけを掲げ、それにそぐわない者を表向きは排斥するから、志部のような弱者につけ込もうとする地に足のついていない人間が出てくる。
彼方は勇樹を守った上で攫うため、水無月は勇樹を捕えて囲うために行動している。彼方は勇樹を真に想うからこそ、水無月の手口が挑発であることを頭に叩き込んでおかねばならない。水無月は彼方の引いた一線を越えたが、勇樹のそれには手をつけていない。
結局この世で力を持つのは、自分のことだけしか考えない汚い大人が多い。大きなものを皆と協力して作り育てるよりも、皆の共通財産となるものから自分だけが利を得てそれを痩せ細らせ、共同体から切り離した己だけが肥える方がたやすいのだ。彼らはその薄汚い権力を維持するために歪んだ構造を作り、それが悪循環を生む。
権力のない、あるいは権力を失った悪は叩かれるが、一番大げさに騒ぎ立てられるのは、巨大な悪に足を引っ張られる正義だ。自分たちだけが得をして、結果的に皆に損をさせる者たちを悪と称し、悪を潰すことが共通財産を大きく育てることに繋がると、皆の共通財産のために動く者を正義と呼ぶなら、正義には本当に敵が多い。更には他者を沈めて這い上がった悪人ほど、敵を陥れる術を熟知しており、善人はそれを見抜けないから、正義には味方も少ない。
水無月は正義であろうとする彼方の基準は踏みにじったが、勇樹にとっての悪になろうとはしていない。そこがまた狡いのだ。
悪は常に悪なわけではなく、水無月も彼方にとっての悪ではあっても、勇樹の善であろうとしている。ただし彼方の悪である時点で、巡り巡って勇樹の悪になると気づいていない片手落ちな部分もある。
善と悪の境界線など、人間が勝手に判断するもので、その正確さは定義する者によって違うし、基準は基本的に進歩する。勇樹の善と彼方の善が異なるのも当然だ。
しかし勇樹と彼方の判断する力を比べたら、彼方の方が勝っている自負がある。なぜなら勇樹の持っている情報が彼方に比べると圧倒的に少ないからだ。情報処理能力の高い彼方が、勇樹や他の誰も知り得ないことを知った上で物事を進めているのだから、そういう意味でフェアではない。だから彼方は勇樹の分までそれらを考慮に入れた上で最善を選んでいる。
勇樹に彼方の持っている情報を与えても今は処理しきれないことがわかっているので、それを彼が受け止められるよう着々と下地を準備しているのだ。
彼方の中で正義と悪を分けるものは愛という名の思いやりだ。当然自己愛を指すのではない。他人を心から愛し、思いやる気持ちが、限りなく善に近いと信じている。
この件を全部片づけたら、行動に起こすだけでなくもっと彼方がうまく伝えられるようになったら、勇樹に振り向いてほしい。今のままでこちらを向いてほしいなんて口が裂けても言えないし、言う気もない。まだまだ仔犬は成長途中だから、押し潰してしまうわけにはいかない。
ただこの溢れそうな想いを押しとどめるために、彼方は傲岸不遜な態度で、そこに込めた願いなどないかのように、言葉をぶつけるのだ。
「こっち向け仔犬」
改稿:2018-11-01