天龍双

こっち向け仔犬

 今まで我慢してきた気持ちを抑えられなくなるのはどういう時か。
 守るべき一線を越え、不文律ふぶんりつなどまるでないかのように、土足どそくで大事なものを踏み荒らされたら、誰だっていきどおるだろう。
 七瀬彼方にとって、水無月薫のしたことは許しがた悪行あくぎょうで、叩き潰さねばならないものだった。
「彼方君がやる気になってくれて嬉しいよ。僕たちで天下を取ろう」
 至極しごくまじめにこんなことを言うのは、現放送委員長の志部しべまことだ。彼は地味な丸眼鏡を掛けた傍迷惑はためいわくな男だが、破壊を目的とした場合、これほどやりやすい者もいない。
 彼方と志部の利害は完全に一致していて、思想に差はあれども、共闘することで水無月の目論見もくろみくじく助けになる。
「勇樹のやつがまさか立候補するとは思ってなくて、楽観視らっかんししてたのですが、こちらもしっかり計画を立てないといけませんね」
 彼方はこういう時に不自然に思われない程度には、普段から外面の良さを保っている。志部に対しては殊更ことさらだ。彼は自分に好意的な相手には面倒見の良さを発揮して、驚くくらい協力的になる。
「僕が全面的にバックアップするから大丈夫だ。僕が部長を務める新聞部でも大大的だいだいてきに彼方君のことを取り上げるし、水無月君の印象操作をしてイメージダウンさせれば、彼方君に一層いっそう有利になる」
 そして志部の目的達成のためには、さらりとこういう手段をもちいようとするところが、利用しやすい。
 自らを上げるためにライバルを蹴落けおとそうとする者は、本質的な向上よりも余所よそに目を向けがちだから、気を逸らさせることも容易たやすく、彼方に都合のよい方向に誘導しやすいのだ。
「勇樹は単純ですけど、水無月は曲者くせものですよね」
 彼方は志部の前でも水無月への不敬を隠さない。単に取りつくろう必要がないからだ。
 志部はわかりやすく水無月に劣等感を抱いていて、表立って喜びはしないが、彼方の態度に暗い喜びを見出しているのがうかがえる。
「僕は彼方君のように同じこころざしを持った後輩に放送委員長になって欲しいんだ」
 志部は自身に陶酔とうすいするように信条を語った。
「何故人間はかくもおろかなのか。それは自分たちが人間だと自覚していないからだ。人間は万物の霊長れいちょうではない。人間は地球上では覇権はけんを握っているかもしれないが、宇宙に出たら宇宙服なしには生存できない脆弱ぜいじゃくな存在で、自らのというものをわきまえる必要がある。人間は地球で生まれ、地球で生きていくのに最適さいてきの肉体しか持ち合わせていない。何も僕は宇宙への進出論を否定しているわけではないが、その前に地球をいかにして守るかを考えるべきじゃないだろうか? 宇宙人の中には肉体を――」
 志部はいびつな男だ。宇宙人に対して憧憬どうけいに近い憎しみを抱いており、それを正当化しようとするから、卑屈ひくつで、雄大ゆうだいで、他者の理解を得られない。
 そんな周囲との温度差が益益ますます志部を意固地いこじにさせるのだろうが、彼方には彼が自分で負の連鎖れんさを好んで作り上げているように見えた。恐らく向き合いたくないものを無意識に遠ざけているのだ。
「志部先輩のお話は、いつもいろいろと勉強になります。先輩の影響で俺も宇宙について深く考えるようになりましたが、先輩の見解はやはり違いますね」
 彼方は思ったことをいつわらない。ものは言いようだ。ごまかすという行為は取りつくろうために嘘を重ねねばならず、思いもしないことを口にするのは、自らを摩耗まもうさせる。
 人は慣れれば毒すらも摂取せっしゅ躊躇ためらわなくなるが、それは感覚が麻痺まひしたに過ぎない。そのことに気づかない者は、それに見合ったものしか手に入れられず、永遠にもがき続ける。
「僕の話について来られるのは、この学校でも彼方君くらいだよ。そんなに難しいことを言ってるつもりはないんだけどな……」
 志部は空回りしていることを自覚していないから、皆に相手にされないのだ。彼は故意こいに自身の本音から目を逸らしているふしがある。唯一の救いは、他者をだます意図がないことだろうか。
 だが志部の一方的な視点の羅列られつでは、共感を呼ぶことはできない。
「俺は志部先輩のおっしゃることが難しいとは思いませんが、結構周りは宇宙人という単語で遠いことのように感じてしまうのかもしれませんね」
 彼方が志部と話す時に心がけているのは、ごく当たり前のことを素朴そぼくに伝えることだ。志部のような人間に強硬きょうこうな物言いをしても、反発されて終わる。彼が他人の反応に納得できないのは、自分と同じように考えるべきだという、柔軟性じゅうなんせいのなさを修正する思考がないからだ。
「そうなんだろうね……新聞部ではたびたび宇宙人特集を組んだし、僕の放送当番の日は必ず宇宙人の話題を上げたんだが……水無月君にずいぶん却下きゃっかされたから、あまり広まらなかったのかな……」
 外に原因を求めるのが志部の敗因はいいんだ。自省のない人間が彼方は嫌いだが、そういう感情を抱くのは、恐らく怖いからだろう。もし彼方が志部と同じことをしたら、唯一の突破口を見失ってしまう。
 彼方は勇樹に愛されたいのだ。異性愛者の勇樹に彼方が愛されるには、誰よりも魅力的にならなければならない。誰よりも賢く、誰よりも強く、誰よりもかっこよくなって、彼方は勇樹を魅了みりょうしたい。
 志部を水無月が抑えていたのは、放送委員会の心証しんしょうを悪くしないためだ。本来ならば、志部のような男は無視されていた。そうなれば彼は、その理由を自分以外から探そうとして停滞ていたいし、思い詰めた挙げ句に放送室を占拠せんきょでもして、停学を食らっていたのではないだろうか。
 爆発してもその程度の男なのだから、放っておいて害はないが、水無月はあえて自分が間に立つことで、志部をある種のどうしようもないけれど、相手をしてやるべき変人にまで格上げした。
 その方が後輩――正確には勇樹だけを指す――にうつわの大きさを見せられ、尊敬と親しみの念を持ってもらえると踏んだに違いない。
 もし勇樹の言うように、水無月が本当にお優しいのなら、いなすだけに留まらず、たとえ無駄だと予想できても、志部に本気でぶつかっていただろう。
 水無月は自覚のある薄情者はくじょうものだ。彼にとって志部は、勇樹に好ましく思われるために一時的にふうじていた、放送委員会の患部かんぶのようなものだろう。
「水無月はそういうところ抜け目ないですからね。路線ろせんが違うとやりにくかったでしょう」
 彼方が声にねぎらいをにじませると、志部は食いついてきた。
「そうなんだよ! 水無月君は僕の主張をことごとく流して、一種の放送委員会名物のような、誰も本気で取り合わない風潮ふうちょうを作ってしまったんだ!」
 敵の手腕しゅわんは見事だ。本来なら白眼視はくがんしされていた志部を、水無月はうまく馴染なじませた。
「水無月のやり方はしゃくに触りますけど、一般受けを狙うとなると、明るい方面から攻めていくのもいいかもしれませんね。志部先輩は面白い人という見方が広がってますから、それを活用して、今回は親しみやすさを前面に出した演説をしてみてはいかがですか?」
 志部は理論で武装ぶそうしようとするから、とにかく固いのだ。勝ちに行くのなら、不安要素は極力減らしたいが、彼を説得するには細心の注意を要する。
「なるほど……不本意ながら僕にはそういうイメージがあるようだから、笑いのエッセンスを加えることで、エンターテイメント性を高めれば、興味を持つ人も増えるかもしれないね」
 志部をその気にさせるのは簡単だが、彼方の予想の斜め上を行くのが常だからだ。いつもなら彼方は志部のやることを好き勝手にあおり、その後は高みの見物を決め込んでいるが、今度ばかりはそういうわけにもいかない。
 今回の選挙戦で、志部は解体不可能な爆弾のような存在だ。いかに相手の陣営じんえいで勇樹を巻き込まずに破裂させるかが戦略の鍵となる。
 水無月は志部がおかしな発言をすればするほど、それと対比させるように勇樹のまともさをうったえ、正当な方法で勝利を得ようとするだろう。そうすることが一番勇樹に喜ばれるとわかっているから。
 彼方はそんなお綺麗なシナリオ通りに進める気は全くない。水無月が本来の彼からは遠くかけ離れた純粋な勝負を演出しようとするのは、勇樹を取り込むために誠実な男の顔を見せたいからだ。
 すぐにそんな化けの皮はがれるし、あくまでも隠しおおせるつもりならば、彼方がそのみにくい本性を白日はくじつもとさらしてやる。
 彼方と同じようなねじれた想いを抱えているのに、勇樹に負担をいる形で水無月だけが受け入れられるのは道理に合わない。そんなことは許されないし、彼方が許さない。嫉妬でどうにかなってしまいそうだが、彼方は冷静に水無月に標準を定めた。
 彼方が素直になれば、この苦しさからは解放されるだろうが、それでは勇樹を困らせるだけだ。仮に勇樹と結ばれても、彼方では彼に与えられないものがたくさんあるし、それを上回る幸福で彼を満たすには、まだまだ力不足だ。
 彼方はもっと己を高め、勇樹に相応しい清らかさを身につけるまでは、この想いを胸に秘め、彼の傍にいるに留める。彼を守るためだと思えば、耐えられる。
 彼方は自らを雁字搦がんじがらめに縛っているからこそ、勇樹よりも自分を優先する水無月が余計憎かった。
 自身の欲求よりも勇樹を大切にしている彼方を嘲笑あざわらうかのように、自己中心的な水無月が悪びれもせずに、そのいやしい欲望を叶えようとしている。彼方が大事に保護してきたかわいい仔犬をあざむいて。
「志部先輩の発想は流石ですね! 水無月の作ったイメージを逆手さかてに取って彼を巻き込み、勇樹が委員長よりも副委員長に向いてることを印象づけましょう」
 志部を放送委員長として増長ぞうちょうさせ、致命傷ちめいしょうになりる存在にまで成長させたのは水無月だ。
「新しい試みというのは、こうも胸がおどるものなのか。さまざまなアイディアが次次とわいてきたよ。台本ができたら、真っ先に彼方君に見せるからね。君の意見も取り入れ、更に発展させよう」
 耳に優しい意見だけが、志部にとって尊重するべきものなのだ。彼方の悪意にまみれた後押しで、せいぜい踊り狂え。
 彼方は勇樹を守りながら、志部と共に水無月が散る様を楽しもう。こういう時だけは、勇樹の意向を無視しても胸が痛まない。彼を守るためなのだから。
 高校の選挙戦らしからぬ様相ようそうを帯びてきたが、彼方は美しい箱庭からの脱却だっきゃく貢献こうけんしているとすら言える。
 彼方は純粋な勇樹には思いも寄らない悪意を網羅もうらして、示してやるのだ。それを上回り、勇樹を守ってやれるのは彼方だけだと。見えないことが存在しないことにはならない。影響されないこととは別だけれど。
 正正堂堂と、礼儀正しく、公平にきそいましょう――水無月がかかげた指針には反吐へどが出る。色恋沙汰ざたにはそんな気さらさらないくせに。彼は彼方を躊躇ちゅうちょなくがけから突き落とすだろう。勇樹だけを安全地帯に避難ひなんさせて。
 真の悪人は無菌室を作ることから始めるのだ。そこで育った子供ほど管理しやすい者はいない。人を支配したがる者は、対象者の骨をそうとは悟らせずに抜くことから始める。
 勇樹はそんな子供に近い純粋な男だ。見える範囲がせまいから、何も知らずに綺麗なままでいられる。水無月は勇樹の視野しやを広げようとはしないだろう。
 学校という小さな集団にぞくしていて、情報をる手段の限られた勇樹は、どんなに染めやすいだろうか。少量ずつ毒を与えていけば、いずれ毒を毒とも思わなくなる。思いついても彼方がやらなかったことを、水無月は実行しようとしているのだ。
 閉じられた空間に、変質した思想ウイルスを投入すれば、抵抗力のない人間に感染は広がり、他の毒を持っているゆえに罹患りかんしない少数派は潜伏せんぷくする。仮にそのやまい克服こくふくする善人が現れても、ウイルスの繁殖力はんしょくりょくにはかなわず、圧倒的な数の暴力で鎮圧ちんあつされるだろう。
 水無月は彼方を潜伏者のままでいさせる気だ。彼方が勇樹に告白しない理由をすっかり見通して、敗北を突きつければ、邪魔者は出て来られなくなると、この対決を用意した。全部計算ずくの告白なのだ。何てよくできた計画なのか。
 水無月薫は公正公平をうたった生粋きっすいの捕食者だ。弱肉強食を否定することこそが欺瞞ぎまんだと知った上で、そうしたがる者を煽動せんどうする。
 形を変えているだけで、強者が弱者をむさぼる構図はそのまま残っており、詐欺師さぎしなどはその典型てんけいだ。彼らは善人をだますのではない。詐欺は悪、被害者はかわいそうという感覚が一般的だろうが、その認識にんしきは物事を正確にとらえるさまたげとなる。
 詐欺師が狙うのは弱い部分だ。攻めやすい、守りが甘い箇所かしょを的確に見抜き、つけ込む。寂しい人間、不安を抱える人間、主体性のない人間、他力本願な人間、老いぼれた人間、無知な人間、幼く経験のない人間、無防備な人間、考えの浅い人間、色におぼれる人間、傲慢ごうまんな人間、どれも絶好ぜっこうのカモだ。
 自然界では当たり前に行われていることを、人間だけが見ようとしない。現実を直視せずに、理想だけを掲げ、それにそぐわない者を表向きは排斥はいせきするから、志部のような地に足の着かない人間が出てくる。
 彼方は勇樹を守るため、水無月は勇樹を囲うために行動している。彼方は勇樹を想うからこそ、水無月の手口が挑発であることを頭に叩き込んでおかねばならない。水無月は彼方の引いた一線を越えたが、勇樹のそれには手をつけていない。
 結局力を持つのは、自分のことだけしか考えない汚い大人が多い。彼らはその権力を維持するために歪んだ構造を作り、それが悪循環あくじゅんかんを生む。
 権力のない、あるいは権力を失った悪は叩かれるが、一番大げさに騒ぎ立てられるのは、巨大な悪に足を引っ張られる正義だ。他者をしずめてい上がった人間ほど、敵をおとしいれるすべ熟知じゅくちしており、善人はそれを見抜けない。
 水無月は正義であろうとする彼方の基準は踏みにじったが、勇樹にとっての悪になろうとはしていない。そこがまたずるいのだ。
 悪は常に悪なわけではなく、水無月も彼方にとっての悪ではあっても、勇樹のぜんであろうとしている。
 善と悪の境界線など、人間が勝手に判断するもので、その正確さは定義する者によって違うし、基準は基本的に進歩する。勇樹の善と彼方の善が異なるのも当然だ。
 しかし勇樹と彼方の判断する力を比べたら、彼方の方がまさっている自負じふがある。だから彼方は勇樹の分まで選んでやるのだ。
 彼方の中で正義と悪を分けるものは愛だ。自己愛を指すのではない。他人を心から愛する気持ちが、限りなく善に近いと信じている。
 この件を全部片づけたら、もっと彼方が成長したら、勇樹に振り向いて欲しい。今のままでこちらを向いて欲しいなんて口がけても言えないし、言う気もない。
 ただこのあふれそうな想いを押しとどめるために、彼方は傲岸不遜ごうがんふそんな態度で、そこに込めた願いなどないかのように、言葉をぶつけるのだ。
「こっち向け仔犬」

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