3-01.仔犬君はカワイイね
「あの、俺……恥ずかしくて、勇気が出なくてなかなか言えないこともありますが、薫先輩に少しずつ俺の話をしますから……それでお返事できるように……」
頬を赤くしてもごもご言う勇樹に、水無月薫はほくそ笑んだ。
誠実に想いを告げれば、勇樹なら無下にできないと思っていたが、予想以上に彼は薫のことを考えてくれているらしい。
愛しい後輩の頭の中が己で満たされる様に、薫は陶酔する。勇樹の思考を埋め尽くしたら、次は心に忍び寄り、七瀬彼方の影を追い払って、薫だけがその心に住まうのだ。
「ありがとう。勇樹君が俺と真剣に向き合ってくれるなんて夢みたいだ」
薫は夢でまで勇樹を陥落させるシミュレーションをしていたのだ。どんな状況にも対応してみせる。
「……俺の方こそ、薫先輩に好きって言ってもらえて嬉しかったんです……」
はにかむ勇樹に、薫は早速理性が吹っ飛びそうになった。
「……なんてかわいいのだろう」
気合いで持ち直したが、思いの外低い声が出てしまい、勇樹がびくっとした。
「もしかして何か怒ってます……?」
「まさか。勇樹君があまりに嬉しいことを言ってくれるから、勢い余ってしまって……ごめんね」
脳内で一足飛びに勇樹を押し倒してしまったので、つい真顔になっただけだ。薫が笑顔に戻ると、彼はほっとしたようだ。
「いえ、俺の方こそ誤解してしまって……」
ぎこちなくもどこか甘酸っぱい空気に、薫はもう両想いなのではないかという妄想を振り払うのに苦労した。これからが勝負なのだ。
「勇樹君は俺のことどう思ってるの?」
おもむろに切り出したのは、薫にとって勇樹の態度がやけに好意的に感じられたからだ。並々ならぬ興味をおくびにも出さずに、軽く訊ねる。
「その、かっこよくてすてきな憧れの先輩です……」
勇樹の純粋な憧憬と、恥じらう様が薫の脳髄を揺さぶるが、何食わぬ顔で訊き返す。
「恋人として考えてみるとどう?」
言葉にすることで、勇樹に具体的なイメージを持ってもらいたい。
「恋人……」
素直な勇樹は、薫の言うままに想像したようで、みるみる顔を赤くした。
「こ、恋人とか未知の領域で……考えるだけで頭が沸騰しそうです……」
手で顔を覆う勇樹に、薫は眩暈がした。なぜこうもこちらの理性を試してくるのだろう。この無垢な反応が、たまらなく薫をそそるのだ。
「ねえ、勇樹君ってさ、いつもどういうことを思い浮かべながら――」
思わずセクハラ紛いの問いを発しそうになり、薫はさらりと質問内容を変えた。
「好きな人と接するの? えーっと、初恋とか……」
勇樹が他人を好いた話など聞きたくないが、参考までには知っておきたい。
「初恋……」
勇樹の悲壮な顔つきに、薫は若干焦った。踏み込み過ぎただろうか。
「……実は俺、今まで恋愛的な意味で人を好きになったことがないんです」
「へ?」
どんな悲しい結末を迎えた初恋なのかと身構えていれば、意外な返答に薫は間抜けな声が出た。
「やっぱり驚きますよね……俺、どこかおかしいのかもって――」
「ちょっと待って! そんなの人それぞれだし、俺がびっくりしたのは、勇樹君が内容に比べて重々しく捉え過ぎなことなんだけど……」
決して疑う気はないが、勇樹の中学時代の情報との差異に戸惑ったというのもある。失恋を繰り返していたのではないのか。
「薫先輩は気にならないんですか? 俺、そういう意味の好きがわからなくて、そんな自分が子供っぽくて嫌で、だから無理に誰かを好きになろうとして……」
なんて理想的なのかと薫は感動すら覚えた。女も男も好きになったことがない真っ白な勇樹を、薫が最初に手に入れられるのだ。
それに勇樹のこの反応を見ていると、薫の願望を差し引いても、恋ができないようには思えない。
「俺はそのままの勇樹君が好きなんだ。言い辛いことだったろうに、話してくれてありがとう。勇樹君を知れば知るほど好きになってしまう」
紛う方なき薫の本心だ。勇樹の前だと、薫まで心が浄化されるような気がする。
「うう……お、俺、全然グラビアとかにも興味なくて、そもそもそういう性的なものに反応しないというか……そんななのに好きなんですか……?」
余程恥ずかしいのだろう。涙目になっている勇樹を前に、薫は「じゃあ俺に確かめさせて」と言い出さない己の理性を誉め称えた。
「好きだよ。大好きだ。そんなに心配しなくて大丈夫だよ。遅咲きの花もあるし、触れ合ってみればまた違うかもしれないし」
うっかり本音を漏らしてしまう程度には、薫の理性もぎりぎりだった。
「た、確かに俺、女子と手を繋いだのなんて小学校のフォークダンスくらいで……そ、そういうのも試してみた方がいいかもしれませんね」
勇樹は薫の言葉に照れているようで、それをごまかすように早口になっていたが、本気なのだろうか。
「試すってどこまで……?」
欲望に忠実になってしまいそうな心を宥め、薫は慎重に問いかけた。
「え? え? あ、あの、手、手を繋ぐとか……だ、抱き締めるとか……?」
深く考えずに言ったのだろう。狼狽える勇樹に、薫は畳み掛けた。
「キスは?」
「え!? そ、それはさすがに……試す範囲を越えてるというか、そこまで相手に頼めないですし……お、俺も初めては大事にしたいですし……」
「そう……初めてなんだ……」
勇樹が寝ている間に、彼方がこっそりキスくらいしているだろうが、本人が認識する初めてが重要なのだ――と、薫は自分に言い聞かせた。
「あ、犬はカウントしませんよね? 昔、いとこの家で飼ってた黒ラブに舐められたことが……」
犬に殺意が湧くなんてことはない――と、薫は思いつつも、犬を羨ましく思うほどに勇樹に飢えていた。
「さすがに犬はカウントしないよ。双方の気持ちが伴わないものも数に入れなくていいんじゃないかな」
さり気なく彼方を除外する。予想に過ぎないが、薫には確信があった。勇樹の家に泊まることもあるらしい彼方が、無防備に眠るかわいい仔犬を前に、何もしなかったとは思えない。
薫だったら絶対に何度も唇を奪っているし、下手すると舌まで入れているだろう。そのままずるずると歯止めが利かなくなり、そういう方面から勇樹をじわじわと……暴走しそうになる思考を落ち着かせ、薫は震える勇樹を見つめた。
「お、俺、そうなると一生キスできないと思います……自分から積極的にしたいと思ったことがないですし、そんな気持ちでしようとしたら、相手に失礼ですし……」
この手の話題に滅法弱いらしい勇樹は、かわいそうなくらい縮こまっている。そのどことなく怯える様子に薫は舌舐めずりしそうになった。
「勇樹君に知りたいという気持ちがあって、相手が勇樹君のこと好きなら問題ないよね?」
薫が笑顔で断定すると、勇樹は頷きそうになって、はっとしたように首を振った。
「だめですよ。相手が本気なら尚更利用するような真似は――」
「大丈夫。勇樹君はその相手と向き合うためにするんだから」
「そうですかね……うーん……」
悩み始めた勇樹に、薫はもう一押しした。
「少なくとも俺は、勇樹君が俺に返事をするためにいろいろがんばってくれたら嬉しいよ。だから俺と手を繋ぐことから始めてみない?」
一度得た温もりを手放すことなど絶対にできないとわかっていながら、薫は提案した。
「ううう……改まるとものすごく恥ずかしいです……」
耳まで真っ赤にする勇樹に、生理的嫌悪はなさそうだ。
「かわいいね。勇樹君の全てを俺は愛してるよ」
薫が優しく手を握ると、勇樹はいよいよ首まで赤く染まった。そのまま微動だにしなくなった彼を前に、薫は性急に事を進めたがる自身を抑え、甘く囁く。
「勇樹君は今どう感じてるの? 俺はね、勇樹君に触れられたことが幸せで、こんなに満たされたのは初めてだし、もっと触れたいって貪欲な想いもある。俺をこんな気持ちにさせるのは君だけだよ」
勇樹にはどこまでも丁寧に親切にしたい反面、貪るように彼を求める想いが、強引に奪ってしまえと薫を唆す。
「……俺はもう全身が茹だってしまいそうで……ううう……だってずっと理想を見上げてたのに、急に目の前に理想を体現したような薫先輩が現れて、そのままの俺を好きだと言ってくれるなんて、どうしたらいいのかわからないくらい刺激が強過ぎて……」
薫も勇樹が愛し過ぎて、どうしたらいいのかわからない。
「こ、このままじゃ使い物にならなそうなので、あの、一旦手を離してもらってもいいですか?」
自分で振り払えないところが勇樹らしい。薫は名残惜しく思いつつも、そっと手を引っ込めた。
「すみません……せっかく薫先輩の家のカフェを貸し切りで使わせてもらってるので、俺から話し始めたことですけど、放送委員会のことを考えましょう」
委員長選挙のことをきっかけに、薫の親が経営しているカフェ『 La vie 』の定休日には店を貸し切って、必ず勇樹を招くようになった。
自宅と併設しているカフェだが、この日両親は基本的に夜遅くまで不在だし、姉も帰宅は大抵深夜のため、勇樹と二人きりで誰にも邪魔されないで過ごせるのだ。
「俺の方こそ、勇樹君を好きな気持ちを抑えられなくてごめんね」
勇樹には全く警戒心がないので、薫が促せば何の疑問もなく自宅の部屋に上がるだろう。しかしそこまですると薫の理性がいよいよ綱渡りになるため、勇樹が慣れるまではここいらで留めておく。
「うう……薫先輩は、好きな相手にはその……いつもそうなんですか?」
薫が愛情を前面に出すから、勇樹はすっかりそれが通常通りだと思っている。
「勇樹君だけだよ。俺の初恋だからね。後悔はしたくないから、想いを伝えることを俺は躊躇わないんだ」
勇樹に会うのを待っていたかのように、彼以外には心が動かなかった。これは薫にとって唯一の恋で、これから更に深まっていく愛なのだ。
「初恋……あの、こんなことを訊くのは失礼かもしれませんが、もしかして薫先輩は、諦めることを前提に俺に告白してくれたんですか……?」
薫の声の調子が沈んだせいか、誤解させてしまったようだ。
「まさか! 俺は過去の思い出にするための告白はしないよ。俺の中では勇樹君と海外で式を挙げることまで視野に入れてるから……重いかもしれないけど……」
勇樹に断られる想像も数限りなくしたので、そのせいで暗い印象になってしまったのだろう。
「海外で式……」
ぽかんとする勇樹に、薫は内心で冷や汗をかく。つい先走り過ぎてしまった。
「薫先輩はそこまで将来のことを考えてるんですね……!」
勇樹が尊敬の眼差しを向けてきたので、薫は拍子抜けしたものの、ほっとした。
「えーっと、念のため言っておくけど、勇樹君と結婚したいってことだからね? 今の日本の法律では無理だけど……」
「結婚まで見据えて告白するのはすごいことだと……俺と結婚!?」
仰天する勇樹に、薫は神妙に頷いた。
「俺は本気で勇樹君が好きだからね。ずっと一緒にいたいって思ったら、自然とそういうことにも目を向けるだろう?」
「す、すみません……俺、全然頭が追いついてなくて……なんか一瞬他人事みたいに考えてしまったんですが、大丈夫です。しっかりして、しっかり結婚にまで視野を広げて、しっかり返事します!」
とても大丈夫そうには見えないが、薫はこれ以上勇樹を混乱させないよう口を噤んだ。
「そういえば、彼方のやつが俺に立候補を取り消せとかごねてきたんですよ」
平静を保ちたいのか、勇樹は唐突に話題を転換させ、日常に戻ろうとしている。
恋敵が勇樹の手を煩わせたのには腹が立つが、敵の情報は多いに越したことはない。にこやかに相槌を打ちながら、薫は予測と現実を照らし合わせた。
思ったよりも彼方の反応が直球だったが、それだけ余裕がなかったのだろう。そのまま自滅してくれれば楽なのだが、そこまで楽観視できる相手ではない。
向こうには志部という不安要素があり、彼方はそれを最大限活用してくるだろうから、気を抜けない。こちらの意図に気づけば、彼方も手段は選ぶまい。
薫とて本当は彼方を瀬戸際に立たせるような真似はしたくなかった。相手を徹底的に追い詰めるのは、決して褒められたやり方ではない。そうすることによって得る一時的な充足感よりも、遥かにデメリットの方が大きいからだ。
薫の人当たりが良いのも、結局は敵を敵にする前にうまく処理するためだ。完全に対立した相手を倒すよりも、水面下で動いて片づける方が効率的なのだ。
叩き潰される直前の人間というのは、なりふり構わず抵抗するから、制圧するのにも時間がかかる。
相手に逃げ道を残さないという薫のいじわるは、思考に留めて行動には移さない。その方が円滑に物事を進められるし、自らを窮地に陥らせる可能性は少しでも排除したい。逃げ道があるように見せかけて、それが実は自滅の道であるという追い詰め方ならすることもあるだろう。
「あー、彼方君は俺の真意を深読みし過ぎだね……」
薫が苦笑いすると、勇樹も困り顔で頷いた。
「なんでであいつはあんなにトゲトゲしてるんですかね……」
「俺は勇樹君の特別になりたいけど、それは彼方君の親友の座を脅かすものでもないんだけどね……」
薫が彼方を排斥するのではない。彼自身が自ずと身を引くのだ。
「なんだかんだ敵視してるくせに、薫先輩が放送委員長になってればよかったとか言って、めちゃくちゃですよ……」
「ね、今は二人きりなんだし、薫さんって呼んでくれない?」
薫は昔から都合が悪くなると話を逸らす癖がある。自覚していても、なかなか直せるものではなく、放送委員長のことに関する彼方の指摘は耳が痛かった。
「えっ、あう、そうですよね……つい……」
勇樹は無意識に先輩と後輩という立ち位置から外れるのを恐れているようだが、薫がお願いすれば素直に応じてくれる。
「か、薫さんは現委員長をどう思ってるんですか?」
どもった勇樹がかわいかったので、薫は正直に打ち明けることにした。
「放送委員会の爆弾だと思ってるよ……あとやり過ぎた、とも。もう少し無難な方向で抑えてもよかったんだけど、俺の考えてたものよりも幾分かギャグになっちゃったよね……」
これでも薫は反省しているのだ。ツッコミに回る勇樹の反応があまりに愛らしかったため、薫は委員長を『委員長』という変な生き物にしてしまったのだ。
放送委員会内で委員長を委員長呼びしないのは彼方くらいで(そこが彼の反抗心の顕れだ)皆は志部を変な委員長として見ている。
委員長が変なのは委員長だから――この考え方は、志部を一般生徒から逸脱させたもので、故意に同じ人間という枠組みから脱線させていると言える。それゆえに彼を理解しなくて済むし、その方が笑っていられるから大衆に受け入れられやすいのだ。
逆に考えれば、志部という患部の本質を直視しないから、いつまで経っても傷が傷のまま残っている。
「委員長は確かにギャグですけど、やり過ぎたってどういうことですか?」
不思議そうな顔をする勇樹に、薫は柔らかく笑った。
「もっと委員長に優しくしてもよかったかなって……」
本人も満更ではなさそうだが、とんだピエロにしてしまった。
「えっ、薫先輩はすごく優しいですよ!?」
驚く余り、勇樹はまた先輩呼びになっている。
「そうかな? 勇樹君がそう言ってくれるなら、このままでもいいのかな……」
現実から離れた、穏やかで甘い世界に勇樹を閉じ込めてしまおうか。全てを見せようとする彼方に、ヒーロー願望のロマンチストと名づけて、彼の姿をぼかしてしまえば、勇樹は薫のものになってくれるかもしれない。
「な、何かまずいことでも……?」
心配そうにこちらを窺う勇樹に、薫は微笑んだ。
「ううん。少し委員長対策を考えていただけ。俺がもう少し彼に優しくしてれば、こんなふうに対立しないで済んだのかなって」
彼方と敵対することになったのは、どうしても彼が薫と相容れない考えの持ち主だからだ。
入り口は容易く、徐々に深奥へと誘う薫は、彼方の目には勇樹の思考を少しずつ溶かしていくペテン師のように映っているだろう。実際薫は、勇樹に暗闇の片鱗も見せる気はない。だがその目的は平穏な幸せで、彼を思い通りにするために目隠しするわけではない。
薫と結ばれることで、勇樹に強いることになる少数派という称号には、特別という名を。周囲の雑音や悪意には偽りの抗体を、万全な予防を。それでも防ぎ切れないものは、勇樹が見ていない間に薫が一掃するから、どうかその純粋さを失わないで。
「薫先輩に落ち度はありませんよ! 彼方のやつは昔から敵対心が強いというか……ほら、手負いの獣みたいな感じで……」
「あはは、彼方君はかわいい仔犬を育てるオオカミっぽいかもね。俺はさしずめその仔犬にちょっかいを出す悪い狩人ってところかな?」
「ち、違いますよ。薫先輩はその例えでいくと、仔犬が憧れるかっこいい人です。貴族的な……。委員長は……森で黒魔術を行う謎のきこりで、彼方オオカミに面白半分に背中を押されて、世界征服を企むようになりそうですよね」
人はわからないものや、遠いものに未知を詰め込んで、そこに何かを期待する。本当は何が潜んでいるか知らない方が楽しいと、本能的に悟っているから。見ない方が楽だから。
言い訳はしない。薫は勇樹を狭くて優しい庭園で飼い殺しにしようとする悪い男だ。だからその囲いを壊し、薫が管理できる以上の広い世界を勇樹に示そうとする彼方が邪魔なのだ。
求める者は同じでも、異なる方法を選んだ癪に障る男。感情的にならないようにしているが、薫は彼方以上に相手を敵視しているだろう。
賽は投げられた。どちらかが舞台を下りるまで幕は閉じない。
「勇樹君はカワイイね」
どうかそのままで、薫の手を取って。甘い夢だけを捧げるから。
改稿:2018-11-03