天龍双

仔犬君は燃えている

 今まで生きてきた中で、これほど充実していたことはあっただろうか。
 七瀬勇樹は、きたる放送委員長選挙に向けて、薫先輩と準備をするのが楽しくて仕方なかった。
 彼方は相変わらず不機嫌だったが、勇樹はいずれ和解できるだろうと、深刻には考えていない。
 薫先輩は勇樹が思っていた以上に素晴らしい人で、知れば知るほど好きになった――それが恋愛的な意味かはわからないが。
「勇樹君のポスター好評だって。かわいいから当然だね」
 校内は例年にない盛り上がりを見せていて、やはり華やかで目立つ二人が先頭に立って仕切ると違う。
 薫先輩と彼方の直接対決ではないが、それがかえって良かった。もてる男ナンバーワン決定戦になると、男子は面白くないだろうし、女子の間で妙な熱気が生まれかねない――というのが薫先輩の見解だ。
「あれはかわいいというより、薫先輩のアイディアが良かったんですよ」
 今回は事前に学校側の許可を取って――成績優秀で、弁が立つ薫先輩と彼方にかかれば朝飯前だ――かなり自由に選挙活動をしている。
 候補者のポスター作りなんて本格的だが、薫先輩は器用で、学校のコンピュータールームを利用してすてきなものを作成してくれた。先生に何て言って借りたのか知らないが、ラミネート加工までしてくれたのだから、気合いが入っている。
 実際の大人の選挙からは程遠いが、勇樹はこのポスターには薫先輩の優しい思いが入っている感じがして、とても好きだ。
 使用する写真を薫先輩の部屋で撮ったのも、気恥ずかしくはあったが、面白かった。ふざけ過ぎだと怒られそうな犬コスプレや、何故か海をテーマに、海パンでサーフボードを片手にポーズを決めたものや、カフェ『La vie』のウェイター姿なんかも水無月家所有のデジカメに収まっているが、それは使えない。
 先輩と後輩というのをうっかり忘れそうになるくらい撮影会は盛り上がり、薫先輩と友達のように打ち解けたところで愛を囁かれ、勇樹はドキドキしっぱなしだった。
「被写体が勇樹君だからこそ、ああいうコンセプトで作れたんだよ」
 薫先輩の控えめな姿勢が、勇樹には輝いて見えた。彼方と組んだ現放送委員長が好んで前面に出るから尚更だ。
「皆で繋がる放送委員会……俺、前前からもっとお昼の放送で、例えば部活とかテーマを決めてゲストを呼んで、インタビューしたり、フリートークしたりしてみたかったんですよ。彼方のやつは嫌がるでしょうけど……」
 そういう企画もあるにはあったが、大抵委員長が暴走して、うやむやなまま終わってしまった。貴重な成功体験は、勇樹と彼方の担当する水曜日に、薫先輩がゲストとして飛び入り参加した時くらいで(あの日は女子に大好評だった)皆人当たりの悪い彼方を恐れているのか、強烈な個性を持った生徒しか、水曜のインタビュー企画には志願しがんしてくれなくなったのだ。
 そして一人では近寄れない彼方狙いの女子が集団で押し寄せてきた事件以降、放送室は先生と放送委員以外立ち入り禁止になり……だから今回のポスターは、その現状を変えましょうという呼びかけなのだ。
 勇樹が満面の笑みで手を差し出し、その手を取った生徒が放送室の中に招き入れられるワンシーンをポスターにした。ちなみに薫先輩はその生徒役で、後ろ姿だけの出演だ。
 薫先輩の家で散散さんざん撮影会をした後に気づくというのも間抜けな話だが、やはり勇樹は自分自身よりも放送委員会を目立たせたかったのだ。勇樹たちに対抗するために、魔導書のような分厚い本を持って魔王の恰好かっこうをした委員長と、黒装束くろしょうぞくでいかにも魔術師といった感じの彼方が黒魔術を行使する姿をポスターにした向こう陣営とは対極的だ。
 薫先輩も最初は、もっと勇樹を印象づける『仔犬始動』というキャッチフレーズと、犬コスプレを推していたが、こちらの思いを伝えるとすぐに方向転換して、親しみやすいポスターを一緒に考えてくれた。
「俺も趣味に走り過ぎちゃったから、勇樹君の言葉で目が覚めたよ。そのおかげでインパクト勝負にならなくて済んだし」
 張り合うように勇樹たちのポスターの隣に鎮座ちんざしている彼方たちのポスターは、こちらが真面目路線な分、異様な雰囲気をかもし出している。
 苦笑する薫先輩は、ふと何かを思いついたように悪戯っぽく笑った。
「ね、これから敵情視察に行かない?」
 昼休みや放課後に、他クラスや他学年を回って、投票を呼びかける――と言うと語弊ごへいが生じるかもしれないが、親交を深めて応援してもらおうと地道に活動している。
 元元勇樹と薫先輩は顔が広いのでそういう話もしやすいが、彼方たちが回っているのを見たことがない。どういうアピールをしているのか気になるところだ。
 直接彼方に聞いても『水無月に言うなら教えない』とぴりぴりし出すので、彼の前では選挙の話を振らないようにしている。
 委員長が部長を務める新聞部では、大大的に彼方のことを取り上げていたが、やはり珍妙ちんみょうな方向性だった。何故か薫先輩が反乱した異分子扱いされていたので、勇樹は委員長に抗議しに行ったが、彼方とタッグを組んで余計話が通じなくなった委員長相手に一人では太刀打たちうちできず、撤退てったいする他なかった。
「行きます! 委員長の動向が不安ですし、薫先輩と一緒なら安心です!」
 薫先輩と力を合わせれば、何とか委員長を説得できるかもしれない。
「そうだね……」
 その時の薫先輩の笑顔が、何故だか印象的だった。

「委員長たちは、第二視聴覚室を根城にしてるらしいから、突撃しよう」
 敵情視察と言うからには、もっとこっそり聞き耳を立てるようなものかと思えば、薫先輩は勇ましかった。
「そんな堂堂といいんですか!?」
 驚愕きょうがくする勇樹に、薫先輩はくすりと笑った。
「第二視聴覚室に、盗聴器を仕掛けるわけにはいかないだろう? 委員長たちがあそこに立てもってる以上、正面突破しかないさ」
「そ、そうですよね……うわあ、何か反応が怖いな……」
 委員長も得体の知れぬ恐ろしさがあるが、彼方が薫先輩に失礼な物言いをしないか心配だった。
「大丈夫、俺がフォローするよ」
「ありがとうございます。俺もなるべく彼方を抑えますね。あいつ近頃ずっとイライラしてるから、何か酷いことを言うかもしれませんが、気にしないでください。ちょっとナーバスになってるんだと思います」
 彼方の邪推じゃすいに近い指摘がこのところ悪化している。
『水無月は放送委員なんだから、わざわざ招かれなくたって放送室に入れるだろ。あれは開放路線をうたった密室の構築という暗喩あんゆなんだ』
 勇樹たちのポスターに変な難癖なんくせをつけてきたり、
『この選挙戦は水無月のカモフラージュに過ぎない。あいつに騙されるなよ』
 ことあるごとに薫先輩の企みを示唆しさしたりと、彼方は少し委員長に影響され始めているのかもしれない。
 委員長は何でも宇宙人の陰謀説いんぼうせつに結び付けてしまうので、彼の主張を皆話半分に聞いているが、そういえば彼方だけは真剣に耳を傾けていた。
「勇樹君……もしかして俺を気遣ってくれてるの?」
 足を止めた薫先輩が、きょとんとした顔をしている。
「え? あ、はい。彼方のやつが薫先輩をわざと傷つけようとしそうなのが怖いというか……」
 勇樹も立ち止まって、隣の薫先輩を見上げる――悲しいことに彼は勇樹よりも二十センチ以上背が高い――と、何故か固まって口元を手で抑えていた。頬が段段だんだん赤くなっていく。
「えっ!? 俺、何か変なことを――」
「ううん、ちょっと新鮮で……俺のこと心配してくれたんだ?」
 薫先輩は口元がにやけるのを手で隠していたようで、やけに嬉しそうだった。
「そりゃしますよ! え、そんなに意外でした?」
「勇樹君が優しい子なのは知ってるけど、俺は昔から心配する側だったから、してもらうのは滅多にないというか……」
 喜びを隠そうとして隠し切れていない薫先輩は、とてもかわいらしかった。いつも彼にかわいいと言われっぱなしだった勇樹は、ここぞとばかりに逆襲ぎゃくしゅうする。
「そんなふうになる薫先輩すごくかわいいです。薫先輩は頼りになってかっこいいですけど、助けてもらうばかりじゃなくて、俺も助けたいです」
「……勇樹君の方こそかわいいよ。ねえ、俺の理性を試してるの?」
「え? 俺は薫先輩を試すなんて――」
「キスしていい?」
 勇樹が言い終える前に、薫先輩は爆弾発言を被せてきた。
「ええ!? な、何言って……ここ学校ですよ!? しかも廊下で――」
「じゃあここならいい?」
 薫先輩は勇樹をひょいっと使われていない準備室に押し込んだ。
 後ろ手にドアを閉め、心なしか目をぎらつかせた薫先輩が、勇樹の頬に手を添える。
 急な状況変化と、色っぽい薫先輩に勇樹は混乱したが、何とか声を出した。
「だ、だめですよ。そんなことしたら俺、ドキドキして死んじゃいそうです!」
「……それ誘ってるよね?」
「え!? どこがですか!?」
 勇樹の正直な思いなのだが、薫先輩は違うように受け取ったらしい。
「無自覚って一番くるよね。でも今ここでしたら勇樹君が困るだろうし、俺も敵情視察とかどうでもよくなっちゃいそうだから、我慢するよ。今度させてね」
 さらりととんでもないことを言って、薫先輩は勇樹から身を離した。
「今度!?」
 キスくらいでこんなに慌てふためくのは、いかにも子供っぽくて恥ずかしいが、完全に勇樹のキャパシティーを越えており、正気を保てない。
「だめかな?」
「だめというか……俺、絶対使い物にならなくなりますよ? あの、薫先輩はこんなふうに慣れてなくて、まともに反応できない俺なんかのどこがいいんですか……?」
 こんな調子では、薫先輩に呆れられてしまいそうで、勇樹はしょんぼりした。
「勇樹君はどうしてそんなに自信がないの? 俺はすぐに照れちゃう君を、すごく愛おしく思うよ。慣れてるとか慣れてないとか関係ないよ。俺は今の勇樹君をそのまま愛してるんだから」
 どうして薫先輩は、勇樹の不安をいとも簡単に溶かしてしまえるのだろう。
 自信のなさからうつむきがちに恋愛をうかがっていた勇樹が、まっすぐ顔を上げられるようになったのは、薫先輩のおかげだ。時時ときどきまた下を向いてしまいそうになるが、こうやって温かい愛の言葉で――遅ればせながら勇樹はその内容に考えが及び、頭が沸騰ふっとうしそうになった。
「ううう……」
 この気持ちを何て表現したらいいのだろう。足元がふわふわして、何も手につかなくなるほど幸福感に満たされている。このまま薫先輩にくっついてしまいたいような心地ここちだ。
「薫先輩……」
 勇樹はふらふらと薫先輩に近づき、そのまま抱きついた。
「えっ、勇樹君!?」
 珍しく薫先輩が焦っている。それが何だかおかしくて、勇樹はぼんやりした頭で小さく笑った。
「すみません、今とっても薫先輩にくっつきたい気分で……俺、薫先輩と一緒にいられて幸せです」
「……俺もだよ」
 薫先輩はふわりと笑って、勇樹を抱き締め返してくれた。
「うう……薫先輩がかっこよくてドキドキします……」
 前前から思っていたが、薫先輩はすてきだ。最近益益ますます輝いて見える。
「……もしかして勇樹君、前から俺のことが好きだったなんてことは……」
 薫先輩がうっすら頬を赤らめながらたずねてきた。
「えっ? あ、う、そうなんでしょうか……?」
 勇樹は以前の自分を振り返り、考えてみた。
「前、クラスメートの山内にナンパしようぜって連れ出されたことがあったんですよ。その時偶然薫先輩に会って、それが嬉しくて、そのままお茶して……思い返してみると、俺って昔から薫先輩と一緒だと楽しくて、舞い上がって時間を忘れちゃうんですよね」
 一目見た時から薫先輩に惹かれていたのは事実だ。
「そもそも俺って、全然自分を直視できてなかったというか……好きって気持ちがわからなかったんですが、それでも薫先輩に惹きつけられてましたから、無意識に好きだったのかもしれません」
 言葉にして改めて勇樹は己の心を自覚した。勇樹は薫先輩のことが好きなのだ。
 そして薫先輩も勇樹のことを――。脳内を両想いという単語が駆け抜け、勇樹は卒倒しそうになった。
 そんな馬鹿な……。この短期間でこんなにすいすい進展してよいのだろうか。
『男と男の真剣勝負だ』
 ふと脳裏を彼方の顔がかすめる。もし勇樹が薫先輩とつき合い始めたら、彼方は恋愛にうつつを抜かすなど言語道断ごんごどうだんいきどおるだろう。
 何より勇樹自身、薫先輩とつき合うことになったら、心臓がいくつあっても足りないくらいドキドキして、下手すると本当に命を落としかねない。
 薫先輩の腕の中にいる今も、ぎりぎり持ちこたえているようなものなのだ。
「……今、俺のこと好き?」
 耳元で囁かれ、勇樹はぎこちなく頷いた。
「はい……その、好きです」
 こんなふうに断言できる好きは初めてで、とても心地良く、勇樹は夢の中にいるようだった。もっと薫先輩を間近で感じたい――その気持ちとは裏腹に、勇樹の身体は限界をうったえている。
 刺激が強過ぎるため、心を無にしないと、本気で死んでしまいそうだ。死因が興奮死なんて嫌過ぎるし、薫先輩に勇樹の命を背負わせるわけには……!
 勇樹は生きびるために全身から力を抜き、意識を数字に向け、ひたすら計算した。数字は勇樹の友達だ――自分の頭がやばい方向に行っているのはわかるが、それ以外に落ち着く方法を思いつけない。
「38×5=190、27×37=999、89×59=5251……」
 勇樹は数学が得意というわけではないが、暗算だけは早い。小学生の頃に習ったそろばんのおかげかもしれない。
「ゆ、勇樹君……?」
 薫先輩がびっくりしているが、勇樹は生きるために必死だった。
「0.8×0.17=0.136……生きてます」
「えっ!?」
 薫先輩には意味不明だろうが、勇樹の命綱いのちづなだ。
「すみません……あまりにドキドキし過ぎて昇天しょうてんしてしまいそうだったので、心を無にするために計算してました。うっかり声に出てしまいましたね」
「えっ!?」
「俺、がんばります……もっと薫先輩に触れられるように。だから待っててください……!」
 少しずつ慣れれば大丈夫だ。勇樹の瞳は静かに燃えていた。

発行日:
▲ Page Top