3-03.仔犬君は預かった
人間とはいかに幸せを求める生き物なのだろう。動物ほどには本能の赴くままに生きていないが、本質的な欲求を無視すれば、必ず歪みが生じる。
ずっとごまかし続けた欲望は、尋常でない力を濃縮させた思念となり、水無月薫を駆り立てた。
「勇樹君、愛してるよ。この想いは深まる一方だ」
何度愛を告げても、足りないくらい愛情が溢れ、勇樹を窒息させてしまうのではないかと贅沢な心配をしている。
愛を表現することが許されているのだ。薫は言葉にすることで、少しでも勇樹の心に触れたかった。
「あわわわ、ほわー!」
奇声を発する勇樹がかわいくて愛しくて仕方ない。前から無自覚に薫を好きだったと聞いて、いよいよ抑えが効かなくなりそうだ。
奥手な勇樹は恋愛にとことん耐性がなく、段階を踏んで進展する必要がありそうだが、本人も精一杯がんばっているようなので、それを見るのも愛おしい。
薫は勇樹の恋人になれる。ずっと求めてきた地位にあっさり手が届き、薫は狂喜した。これで幸せになれる。狂おしいほどに欲してきた勇樹の愛を手に入れられる。
だが勇樹は? 薫は勇樹を幸せにするために、どんな努力も惜しまない。しかし全てを与えてあげられるわけではない。
勇樹の温情を一欠片でも他者に取られたくないという子供っぽい気持ちもあるし、何よりも薫は実にヒーロー向きの男ではないのだ。なぜなら薫がなりたいのは、ヒーローではなく王子様だから。ピンチを救って称賛されるヒーローではなく、誰もが羨む王子様になって勇樹を迎えに行きたいのだ。
勇樹に憧れられるようなすてきな先輩の顔を維持しながら、恋人として距離を縮めていくには、紳士的に振る舞わなくてはならない。男子高校生は思春期真っ盛りで、元々そういう欲求が薄いか、悟りを開きでもしない限り、煩悩を制御するのは難しいだろう。それでも勇樹のために薫は我慢――できるわけがなかった。
「さて、どうしようか」
放送委員長選挙の演説練習を口実に家に招き、なんだかんだ帰宅を引き延ばし、勇樹を泊めることになってしまった――否、下心満載でそういう方向に持っていける不可抗力を、自発的に発生させてしまった。
少量のアルコールで眠くなる勇樹の体質を知っていたので、甘酒を出して寝かしつけ、姉の外泊と両親の帰省が重なったのをよいことに、七瀬家に電話を入れてお泊まりの許可を得た。
我ながら恐ろしいほど手際がよかった――薫は無防備に眠る勇樹を前に、普段は見せられない身勝手な欲望を覗かせた。
「勇樹君、寝ちゃった……?」
起こさないようにそっと肩を揺するが、勇樹はむにゃむにゃ口を動かしただけで、目覚める気配はない。
「俺の着替えがあるし、今朝母さんがカレーを作っておいてくれたから、夕飯の心配もない。勇樹君のお母さんの了承も得たから安心してね」
聞こえていないのは承知で、あえて話しかけたのは、正気を保つためだ。日常を忘れてはいけない。
「勇樹君、好きだよ。どこまでなら君は俺を許してくれる……?」
勇樹が色事に弱く、すぐ参ってしまうのはわかった。そんな彼をかわいいと思う反面、薫の欲はお預け状態に破裂しそうになっている。
「このくらいは構わないだろう?」
瞼に唇を落とし、そのまま頬へ滑らせる。唇の端にも口づけるが、その先は勇樹が起きた時のお楽しみに取っておく。
この衝動に身を任せてしまえば、薫はとても満たされるだろう。そして病みつきになるに違いない。そうしたら勇樹は泣いてしまうだろうか。泣かせてしまうかもしれない。
薫は勇樹を夢中にさせるために、きっといろいろなものを犠牲にして尽くす。薫が失うのは勇樹の心以外で、元より他のものに興味はないからちょうどいい。悪目立ちしないように、適度に情を見せるふりから解放される。
薫は勇樹と二人だけの世界に住みたいが、そういうわけにもいかないので、現実に即した計画を立てている。その計画を実行に移す日は来ないだろうが。だって勇樹から全てを奪うわけにはいかないから。彼を愛することは、彼の幸せを一番に望むこと――薫の幸せ以上に。
別に自己犠牲の精神に浸っているわけではない。勇樹が幸せになることが、薫にとって至上の喜びなのだ。
だから薫は窮地から救い出すヒーローではなく――そもそもピンチになんて陥らせない――勇樹を幸せにする王子様になりたい。
どう考えても薫はそちらの方が向いているし、勇樹はそういうタイプが好きだろう。
ここまでお膳立てをしておいて言うのも、我ながら信用ならないが、勇樹の意思を無視して手を出すような真似はしない――ほんの少ししか。合意を得るために引き続き努力するが、どこかでガス抜きが必要なのも事実で……。
勇樹に触れたい。しかし彼を追い詰めたくない。現状手を繋ぐのが一杯一杯で、正式につき合うことすら慣れるまで保留なのに、あれこれしていいはずがない。
ではどうすればいいのか。薫は間接的に勇樹に触れることにした。
「勇樹君、そんな体勢で寝るのは辛いだろう? 俺のベッドを使っていいよ」
そっと勇樹を抱き上げる。仮に起きたとしても、思考以外で薫にやましいことはない。
「仔犬みたいな抱き心地だね」
勇樹は重くも軽くもなく、細過ぎず太過ぎず。昔飼っていたボーダーコリーの仔犬時代を思い起こさせる身体つきをしている。
仔犬は身体が未発達で、どこか危なっかしいところがあるが、勇樹も男にしては骨張っておらず、仔犬のような柔らかさを持っている。
この微細な感触を伝えても、多分勇樹は肥満と混同して落ち込むだろう。今だけの触り心地を薫は密やかに味わった。
「制服が皺になるといけないから、脱がせるね」
これほど思考と言動が一致していないこともないだろう。深緑のブレザーを脱がせ、ハンガーにかけながら、薫はピンク色に染まりそうになる脳内に、あえて黒色を一滴垂らした。
勇樹が性別についてどう考えているのか知らないが、昔から薫に惹かれてくれていたようなので、男も恋愛対象になりえると考えていいだろう。
それならば、薫よりも共に過ごした時間の長い七瀬彼方のことはどう思っているのか。勇樹は自分をまっすぐ見つめられなかったと言っていたが、彼方に対する気持ちも同様なのではないか。
考えたくはないが、薫が告白したからつられて振り向いてくれただけで、彼方の好意に気づけば、そちらにも傾くのではないだろうか。
勇樹を信じていないわけではないが、今までずっと彼の心変わりを念じていた反動が、薫にのしかかってきた。
薫以外の誰かを好きであろう勇樹が、その恋心を冷まし、いずれはこちらを見てくれるよう願い続けていたのだ。
勇樹の関心を引くと思っていたものに厳しい目を向けていた分、薫は誰よりも自分に辛辣だった。傲慢は自らの刃を鈍らせると、己を過信しないようにも努めてきたが、今は逆にその姿勢が薫を縛っている。
勇樹の心変わりを何よりも恐れながら、彼を魅了し続けるのは、薫の冷酷さに拍車をかけるだろう。
薫の前に立ち塞がる者は、一人残らず排斥して風通しをよくする。頂点から手を差し伸べ、勇樹を引っ張り上げれば、返す必要のない貸しを作り続ければ、彼はますます薫を好きになってくれるだろう。
だから今は僅かな触れ合いで満足するよう尽力する。すやすやと安らかな寝顔を見せる勇樹に、さまざまな思いが湧き上がってくる。薫の傍で安心して眠れることが喜ばしい反面、邪な欲求に身を支配されそうで苦しい。
好き過ぎて気が触れそうなほど手を伸ばしたいのに、それができないのは、薫を変質的な方向へと向かわせた。
「勇樹君、寝苦しいだろうからネクタイを緩めるね」
欲望の中にも勇樹への思い遣りを忘れない。誰かの目や耳があるわけでなくとも、きちんと振る舞うのは、薫に己を欺く癖がないからだ。
真実と嘘を同列に並べる者は、真実で触れる快感を知らないのだろう。嘘という衣を纏った者は、本当が怖いのかもしれないが、それを隠せば本当には触れてもらえない。
薫は嘘が嫌いだ。憎んでいるとすら言ってもいいかもしれない。それは少しでも感度を鈍らせたくないからだ。勇樹を全身で味わうには、彼にも薫を感じさせるには、余計なものを間に挟むわけにはいかない。薄皮一枚でも遠ざける要因はいらない。
彼方は薫が勇樹に目隠しをしたまま、底無し沼に引きずり込もうとしていると考えているようだが、全くの思い違いだ。勇樹の視覚を奪ってしまったら、彼が薫を感じる手段を一つ失うことになる。そんなもったいないことはしない。
薫は欲張りなのだ。勇樹から何一つ奪うことなく、彼の唯一のパートナーという位置に、恋人として収まりたい。その席だけは絶対誰にも譲らないし、そこに最も近い存在は消す。
勇樹と両想いになってから、薫は徹底的に彼方との関わりを排除した。当初予定していた敵情視察も取りやめて、勇樹に彼方といることが楽しくなくなる視点だけを吹き込んだ。
薫には罪悪感が一切ない――それは生まれつきそうなのではなく、罪悪感を覚えるようなやり方をしないからだ。
勇樹に示すのはどれも真実である。ただそれらを伝える順番を選んでいるだけで。薫には他者の脆弱な部分がよく見えるのだ。同時に美点も。
美点からは学び、勇樹には他人の欠点を面白おかしく認識させる。事実、そういう見方もあるのだから。
どれも真で、後ろめたいことは一つもない。薫のやり方は、ヒーロー志望の彼方とは異なるものだが、目指すところは一致しているのがまた目障りなのだ。
「勇樹君、靴下も脱ごうね。あと下も替えようか。俺のスウェットを貸すよ」
徐々に薫で勇樹を満たしていくには、同じように視える目が必要だ。薫と同じ視点を好意的に捉えるためにも。
どうしてこうも無垢なものを塗り替えていくのは楽しいのだろうか。自分の注いだ色を僅かでも反映してきらきらする勇樹を見るのがたまらなく嬉しい。勇樹の身体を手に入れるだけでは足りない。もっと深い部分、その心の奥にまで入り込んで少しでもそれを感じることができたらこの上ない喜びだろう。
薫を教えていく上で避けては通れない道もあるが、そこに勇樹の視点が交わりどう変化していくのか、やや引け目のある悦びもある。
薫にとって自身の抱く欲心だけが疾しい。なぜならそれは勇樹を壊しかねない危険を孕むものだからだ。薫と勇樹では体格差もあるし、力も違う。更には薫の方が奸計に長けている――裏返せば、選択肢の幅が広いということだが、要するにいくらでも勇樹を好きにできる。
そしてそういう形での支配は、男にとって甘美な誘惑で、愛情がブレーキをかけるものの、いつその箍が外れてしまうかを薫は恐れていた。
そういった方法を取れば、勇樹がかわいそうだし、二人の関係性もどこか歪んで、彼の心から薫は拒絶されてしまうだろう。そんな始まり方は嫌だった。
だが今は違う。勇樹は薫のことを好きになってくれて、一生懸命受け入れようとしてくれている。真っ当にこの欲求を発散させられるのだ。一番安易な、力による押し切りに傾きそうになる心を宥める必要性もなくなり、最高の道を選べる。
薫のベッドで幸せそうに眠る愛しい勇樹。上はワイシャツとベスト、下は薫のスウェットというちぐはぐな恰好をしているが、いずれはシルクのパジャマをプレゼントして、キングサイズのベッドを買って、二人で寝入りたい――甘い余韻に浸りながら。
食べ物も、洋服も、最高級のものを用意しよう。薫は誰よりも勇樹を幸せにする恋人になる。
邪魔者さえ無力化できれば、薫は愛情深い聖者のように、どこまでも勇樹に尽くせるのだ。勇樹のための我慢さえ甘美な蜜となる。
「勇樹君、もう少し寝たら夕食にして、お風呂に入ろうね」
薫は完璧な笑顔で囁いた。
改稿:2018-11-07