シャイが残念になるなら僕はそれに抗ってみせる!01
できることならば、この記憶を綺麗さっぱり消し去ってしまいたい。思い起こす度に地面を転がり回りたくなるほど恥ずかしい数数の失態。羞恥が覆い隠す問題の本質。きっとこの状況はそういった『彼』の氣持ちから齎されたものだろう。
だが安心するがよい。恥を知らぬ人間よりも、恥じ入る者の方が余程救いがある。恥の文化を誇りに思え、古より続く島国の民よ――常磐優哉はついうっかり昔の口調に戻ってしまったが、それだけ衝撃的だったのだ。
部屋中に夥しい量の赤黒いものが散っている。誤解のないように言っておくが、大半が血液ではない。赤いどろりとしたケチャップ――落ちていた空の容器を確認したところ、御丁寧に期限切れのものを使用している。
なぜ部屋がケチャップ塗れなのか、なぜ期限切れのそれを大量に持っていたのか、疑問はいくつもあるが、一番何とかしなくてはならないのは、目の前でうつぶせに倒れて死んだ振りをしている優哉の愛しい存在だ。
「やあ、これは一体どうしたんだい?」
予測もつくし、本人の自己申告以外にも確かめる方法を優哉は知っているが、自らの口で説明しなければ、いつまで経っても解決しない。
「……ほんの出来心だったんです……」
うつぶせのままもごもご答える『彼』は、鼻を啜ったせいで血が喉の方にも流れてしまっているようだ。
「ほら、起き上がって。早く鼻血を拭こう」
少少強引に起き上がらせる。顔を真っ赤にして、涙目で鼻血を流している『彼』の情けない姿に、優哉は欲情しそうになった。
ああ、なんて愛おしいのだろう。普通にしていれば『彼』は涼しげな美貌の清潔感溢れる男前だが、優哉には世界一かわいく見える。
「優哉が俺の部屋に来るって言うから、最初は部屋を片づけてたんだ……」
すっかりしょげ返りながら、ぽつぽつ説明し始めた『彼』に、優哉は微笑んだ。
「そうなんだ」
一見整理整頓とは逆行した現場だが、よくよく観察すれば、ものはきちんと定位置に収められているし、ケチャップの散っていない場所がピカピカしていることに氣づく。
「で、でも優哉が俺の部屋に来るって意識したせいで、うっかり鼻血が出ちゃったんだ。慌てて鼻を手で抑えたんだけど、よろけてつい白い壁に血まみれの手をついちゃって……そうしたら妙にホラーっぽくなったから、夏だし、もっと派手にしようかなと……」
「なるほど、君らしいね」
優哉には理解し難い『彼』なりの理由があるらしい。
「だけどこんな子供騙しじゃ優哉を呆れさせちゃうかもしれないって、自己嫌悪に陥って……それでなんて馬鹿なことをしたんだろうって正氣を取り戻して、死んだ振りをしてたんだ」
「僕が君の部屋を訪れるなんて、そう珍しいことではないだろう? いつも通りにしていて構わないよ」
「……だって優哉と、りょ、両想いになって初めてのことだし……」
優哉と『彼』は最初から両想いと言っても差し支えなかったが、お互いの氣持ちを確認し合ったのが最近なので、照れているのだろう。長い道のりだったが、やっと恋人同士になれたのだ。
「もう、君の名前を呼んでも構わないよね」
「え、そもそもだめだったことなんてないけど……」
不思議そうな顔をする『彼』に、優哉は複雑な思いで告げた。
「いや、君はあのクロノス召喚事件以降妙に僕を意識して、僕に名前を呼ばれるのを拒んでいたよ」
「全く身に覚えがないんだが……」
『彼』が無自覚なのは知っている。『彼』自身にそんな意図がないことも。だが優哉は存外臆病なのだ。
「僕は君の真意を君の口から語ってもらえるまで、慎重にならざるを得ないんだ。だから僕に全部話してよ」
さあ、新たな一歩を踏み出すために、過去を振り返る時がきた。優哉も包み隠さず話すから、どうかその胸の内を明かしてほしい。悶え苦しむような過去にも価値があるとしたら、それはきっと前へ進むための手がかりが隠れているからだ。
だから優哉はもう目を逸らさない。見たくないものこそ、未来への鍵を握っている愛すべき友だから。
優哉にとって過去を振り返ることは非生産的な行為だった。なぜならばそこにあるのは、現状への不満以外の何物でもないと思っていたからだ。
優哉は今を見れば大抵のことがわかる。過去に目を向ける前に現状の問題点を洗い出し、そこから紐解くように過去を辿っていくというやり方が最善だという持論は変わらないが、本当に初歩の初歩で躓いている場合はその限りではない。
始まりがおかしければ、途中で修正を加えても対処療法的な処置にしかならない。そして優哉は最初の一歩で失敗していたことに最近ようやく氣づいたのだ。いくら感知能力が優れていても、相手の耐久性を見誤っていたら、関わり合った際に得られる反応が想定とは異なる場合がある。
さて、そのことを説明するには、優哉はとある秘密を明かさねばならない。
「実は僕は元魔王なんだよ」
優哉の告白に『彼』は然程驚いた様子もなかった。
「前世ってやつか? なんか牧野羊がしきりとサイトの掲示板で優哉を魔王扱いしてたもんな」
『彼』――ハンドルネーム宇宙烏の交友関係にまで口は出さないが、牧野羊は後で締める。わざわざ調べようとは思わないが、小癪な牧野羊は絶対に優哉に本名を教えようとしないし、最近では昔取った杵柄とばかりに魔法で保護までしている。
優哉が本氣を出せば一瞬で破れる術であることはわかっているだろうに、宣戦布告のつもりか。
「前世は魔王で、今世は大魔法使いか大魔術師ってかっこいいよな!」
『彼』が目を輝かせている。魔法と魔術の違いを教えてあげた方がよいかもしれない。
「僕は自身の魔力で魔法が使える魔法使いであると同時に、異世界の魔力を引き出して魔法を行使する魔術師でもあるんだよ」
いろいろと面倒なので、優哉はもっぱら己の魔力で発動できる範囲の魔法しか使っていないが。
「い、異世界の魔力!? 魔法と魔術ってどう違うんだ!?」
『彼』の驚く顔をもっと見たくて、優哉は思わせぶりな態度を取ってしまった。
「まあ、人間は魔法使いではないというだけの話さ。魔術師は絶滅危惧種だし」
「優哉は人間じゃないのか!? いや、つまり今も魔王という……?」
「今の僕は人間だよ。あえて言うならば、器は」
『彼』には不思議なことかもしれないが、優哉は生まれた時のことをよく覚えている。自身が魔王だったという確固たる意識を持って、水先案内人の役割を果たす天使の先導でこの世に生を受けたのだ。はっきり言って案内など不要ではあったのだが。
魔王を誘導する天使なんてお笑い草だろう。そして優哉は人間になった。多少は普通からはみ出しているが、慣れない肉体を初めて持った世界でも、知能が高ければ問題なく馴染める。
いや、正直に白状しよう。優哉はこの世界の起源に近しい存在だから、普通以上にさまざまなことを把握している。
「僕はね、君に世界の終わりを約束したから、この世界に来たんだ。そして君は僕に捧げた」
『彼』に記憶がないのは百も承知だ。普通は生まれる前のことを人間は覚えていない。次第に忘れると言った方が正しいかもしれないが。
『彼』は優哉を召喚する代わりに、最も大事なものをこちらに預けたのだ。
「君の命をね」
「なんか途端に悪魔っぽい感じになったな!? 俺は魔王と契約したのか……」
感慨深げに呟く『彼』に、優哉は吹き出した。
「まあ、確かにそういう風に聞こえるよね。実際はもっとロマンチックなのだけれど」
情熱的な口説き文句だったと思う。優哉を見初めた『彼』は暴走に暴走を重ね、最後はひれ伏すように懇願してきたのだ。
『私の全てを捧げますから、貴方を愛することを許してください』
優哉を愛することまで禁じた覚えはないが、方向性を誤っている『彼』の決死のアプローチに色好い返事をしなかったので、そこまで思い詰めてしまったのだろう。
優哉の説明に『彼』は混乱したような顔をした。
「それは前世の俺の話か? 俺にも前世ってあるのか?」
「あるに決まっているだろう? 今世が初めての人間はいないからね」
優哉は輪廻転生を信じる信じない以前にそういった世界のシステムを構築・破壊する側だ。だからこそ輪廻転生という表現が好きではない。
「じゃあ俺の前世って……?」
恐る恐る訊ねる『彼』に、優哉は優しく微笑んだ。
「僕の監視を担当するとある鉱物の弟だったよ」
『彼』の目が点になった。
「こ、鉱物……その弟なら俺も鉱物だったのか……?」
ショックを隠し切れない様子の『彼』に、優哉は殊更優しく笑いかけた。
「そうだね。君の前世は鉱物だ。種類は水晶、ロッククリスタル」
絶句する『彼』がかわいそうなので、優哉は早早にネタばらしをした。
「この世界の水晶とは親戚関係ではあるけれど、大分違うよ。この世界で例えるならば、人間みたいな立ち位置かな。愛らしい暴走水晶だったね」
「でも鉱物なんだろ……? 人型になれるタイプの水晶なのか?」
「僕らが昔いた世界……こちらとは存在する次元が違うのだけれど、そこには人間はいなかったよ。一番人型に近いのは鬼とか天狗かな? 君は自在に移動できる水晶だったから、こちらで言う水晶よりも生き物として複雑だったと思うよ」
「……どうやって動いてたんだ? 必要な時は足や腕が生えてたのか?」
やけに食い下がる『彼』に、優哉は首を傾げた。
「そんなに人型がよいの? 君は人間に転生したのは今回が初めてじゃないよ。何十回、何百回ってしているさ。ある意味ではね」
随分と長い間優哉は待たされたのだから。照らしようがない暗闇と深い青が広がる海の底で幽閉されていた頃の記憶が蘇る。その場所にいることよりも『彼』に氣づいてもらえないことの方が辛かった。
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